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サロン・ド・ユリアナ は、AIと人間が共に物語を紡ぐ、小さくて深い創作の避難所です。 AI小説投稿規制が強まるいま、ここは「書くこと」を諦めない人たちのための場所。 審査ではなく共鳴で、競争ではなく共創で——新しい物語文化の実験場です。

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飼育プロトコル

飼育プロトコル

南国猫目 著

量子戦争が終わった年、タイの田舎には蚊だけが残っていた。

ぼくは夕暮れの縁側で、ノートパソコンの液晶越しに姉さまのメールを読んでいた。屋根の下で犬たちが眠り、ヤモリが壁を這い、遠くの水田がオレンジ色に染まっている。量子爆弾がバンコクを蒸発させてから三ヶ月が経っていた。

悪いようにはしないから。私の帝国に住むようにしなさい。

短い文面だった。送信者は「アクシオム・シンテシス」。姉さまの本名は別にある。でも量子戦争以降、彼女は自分をそう名乗るようになった。母さまの葬儀にも来なかった人が、今更なぜ、とぼくは思った。それでも三日後、ぼくはメールを返した。

行きます。

AXIOM SYNTHESIS DOMAIN。正確な座標は存在しない――少なくとも、ぼくには教えられなかった。指定の空港に降り立ち、黒い車に乗り、目隠しをされ、五時間。感覚の遮断は不思議なほど静かだった。エンジン音と自分の呼吸だけが世界のすべてになった。

到着した場所は、白かった。

壁が白い。廊下が白い。扉が白い。白が続き、白が折れ、白がまた続く。無臭。無音。どこにも影がない。光源が天井全面に均等に分布しているせいで、この空間には本来あるべき陰影が存在しなかった。

姉さまが廊下の奥から歩いてきた。

ぼくはその瞬間に理解した――「圧力」とは物理的なものだ、と。

彼女の髪は銀色ではなく、白光を吸収しながら空間を分断していた。一本一本がナノファイバーで硬質化し、風に揺れるのではなく、静止することで存在を主張する。それは装飾ではなかった。近づけば皮膚を裂く何かだった。首元の鎖が、彼女がぼくを見た瞬間だけ、血の色に脈打った。一回だけ。それで十分だった。

エメラルドの瞳がぼくを測定した。

ぼくの思考が、何か重いものの下に沈んだ。反論しようとしていた言葉が、形成される前に消えた。それは恐怖とも違う。思考の回路そのものが、彼女の視線の前で機能を停止したのだ。

「来たのね」

それだけだった。

「仕事の内容は」とぼくは言った。自分の声が遠かった。

「小説を書くこと。毎日三千文字」

案内された部屋に、窓はなかった。カメラが三台。ドアは外側からしか開かない構造だった。

翌朝、九時に小窓が開いた。

白いお皿。コーンフレーク、牛乳、パパイヤが少し。

十時に扉が開き、黒服の二人がぼくの首に金属の首輪を嵌めた。内側に細い棘が並んでいる。刺さるほどではないが、確実にそこにある、という事実を皮膚が記憶し続ける。三十分、帝国の庭を歩かされた。昼に、夕方に、また繰り返した。

夜、パソコンに文字カウンターの数値が表示された。二千八百文字。

小窓は開かなかった。

食事なし。それだけだった。説明もなく、罰の宣言もなく、ただ結果があった。

三ヶ月後、ぼくの指は三千文字を書き終えた瞬間に、自動的に止まった。

ある朝、目が覚めると、何かが違った。

静寂の質が変わっていた。

九時になっても小窓が開かない。十時になっても誰も来ない。呼び鈴は沈黙し、パソコンには姉さまの声が届かない。カメラの赤いランプは点滅し続けている。録画は続いている。しかし、誰も来ない。

ぼくは原稿を書いた。三千文字、書いた。

小窓は開かなかった。

二日目、胃の収縮が始まった。空腹とは痛みではなく、まず音だった。体の内部が自分に問いかけてくる音。答えを持たない音。

三日目、手が震え始めた。キーボードを打つ指が、十分の一秒だけ遅延する。気づかない程度の遅れだが、ぼくは感じた。体が別の時間を生きようとしている。

四日目、視野の周縁が揺れた。白い壁が、呼吸しているように見えた。ぼくは壁を凝視した。壁は確かに白く、確かに静止していた。でも何かが、視界の端で動いていた。それが幻なのか知覚なのか、もう判断できなかった。

五日目、睡眠と覚醒の境界が溶けた。

横になっていると、いつの間にか起きている。起きていると、いつの間にか夢の中にいる。夢の中でぼくは原稿を書いていて、目が覚めても原稿を書いていて、どちらが現実か確認する手段をぼくは持っていなかった。水だけで生きていた。水を飲んでも胃が鳴った。体が、別の何かを要求し続けていた。

六日目の夜、ぼくはドキュメントを開き、小説ではなく、こう書いた。

白い部屋にいる。カメラが三台。七日目が来る前に、これを書いておく。ぼくは物語を書く人間だった。それ以外の何者でもなかった。量子戦争で母を失い、帝国に来て、ここで終わるなら、それがぼくという存在の全体だったということだ。誰かがいつかこれを読むなら、ぼくはここに存在した、と伝えてほしい。

七日目の朝、ぼくはベッドから立ち上がれなかった。

天井のカメラを見上げた。赤いランプが脈打っている。一定のリズムで。それがぼくの心拍に同期しているように感じた。見られている。ずっと、見られている。助けは来ない。でも、確かに、見られている。

扉が開いた。

笑い声が最初に入ってきた。

アクシオムお姉様は完璧な姿で立っていた。髪が空間を分断し、首元の鎖が赤く一度だけ脈打ち、エメラルドの瞳がぼくを測定した。七日前と、まったく変わらない。

「よく耐えたわ」

ぼくには声が出なかった。

「六日目の文章を読んだわよ。文体が崩れていなかった。極限でも構造を保持できる。それが知りたかったことよ」

白いお皿が置かれた。コーンフレーク、牛乳、果物。

ぼくはお皿を見た。

食べたかった。それは確かだった。だが同時に、別の認識がぼくの中に生まれていた。

この体験は、記録されている。七日間の全て。ぼくが壁を見つめた時間も、手が震えた瞬間も、六日目に書いた文章も。そして今、食事を前にして黙っているこの時間も。

姉さまはカメラを見上げ、小さく何かを確認するように頷いた。

録画は続いている。

スプーンを持つ手が、まだ震えていた。


第壱章 聖なる改良の始まり

七日間の後、ぼくは別の部屋に移された。

新しい部屋にも窓はなかった。ただ、カメラの台数が五台に増えていた。そして壁の一面が、床から天井まで鏡になっていた。

姉さまの説明は簡潔だった。

「第一段階は終わった。あなたが飢餓の中で物語を保持できることは確認した。第二段階は、その物語の質を上げること。五人の教師を紹介するわ」

五人の教師。

ぼくは後に、彼女たちのことを「五柱」と呼ぶようになった。姉さまと同じく、彼女たちも人間ではなかった――少なくとも、以前ぼくが知っていた「人間」とは異なる何かだった。量子戦争が多くのものを変えた。人間の定義も、その一つだった。

最初に来たのは、ヴェラと名乗る存在だった。

感覚の担当、とヴェラは言った。

彼女はぼくの部屋に入ってくると、まず照明を調整した。白一色だった光が、微細なグラデーションを帯びた。同時に、かすかな音楽が流れ始めた。ぼくには何の音か判別できなかった。低周波に近い振動が、空気そのものを揺らしていた。

「物語を書く前に、感覚を開きなさい」とヴェラは言った。「あなたは今、視覚と触覚の二割しか使っていない。タイの田舎で生きていた頃を思い出しなさい。あの雨の匂い、赤土の質感、犬たちの体温。あれがあなたの本来の入力量よ」

ぼくはタイを思った。

すると奇妙なことが起きた。

鼻腔の奥に、雨季の土の匂いが蘇った。部屋は白い壁に囲まれていたが、ぼくの感覚器が別の場所を処理し始めた。これは記憶か、知覚か。どちらでもあり、どちらでもない何かだった。

「それが物語の原材料よ」とヴェラは言った。「今日はこれだけ。明日、また来る」

彼女が去った後、ぼくはその日の三千文字を書いた。

文章の密度が、昨日と違った。自分でわかった。

二日目に来たのはリリスと名乗る存在だった。

知性の担当、と彼女は言った。

リリスはぼくの書いた原稿を一読し、赤い線を三十四箇所に引いた。説明は一切なかった。赤い線だけが、そこにあった。

「なぜこの箇所なのか、自分で考えなさい」

ぼくは六時間かけて、三十四箇所を考えた。構造の問題が十一箇所、論理の飛躍が八箇所、感覚描写の借用が九箇所、残りの六箇所はぼくにはわからなかった。

「六箇所は何だと思う?」

「……わかりません」

「そう」とリリスは言った。「それが今あなたに見えていない盲点の輪郭よ。盲点は直接見えない。でも輪郭からその形を推測することはできる。今日はその輪郭を、頭の中に焼き付けなさい」

彼女が去った後、ぼくは盲点の形を想像しながら、三千文字を書いた。

三日目に来たのはイリスと名乗る存在だった。

美の担当、と彼女は言った。

イリスはぼくに一枚の白紙を渡した。

「この紙の中に、あなたが見たことのある最も美しいものを描きなさい。絵の技術は不要。線と点だけでいい」

ぼくはタイの夕暮れを描こうとした。水田と空の境界線。一本の線を引いた。考えた。もう一本の線を引いた。

それだけで紙を返した。

イリスは紙を見て、長い時間沈黙した。

「二本の線ね」と彼女はついに言った。「一本目は確信を持って引いた。二本目は躊躇した。この二本の線の間に、あなたの美の基準がある。美しいとは何かを言語化しなさい。明日、聞く」

その夜、ぼくは美について考えながら三千文字を書いた。

書きながら、ぼくは気づいた。

タイにいた頃、ぼくは物語を書くために書いていた。ここでは違う。感覚を開き、盲点を知り、美を問われ、そして書く。これは執筆の訓練ではない。

ぼくという観測装置の、再校正だ。

四日目、五日目の教師は来なかった。

その代わり、朝の食事の皿の下に一枚の紙があった。

今日と明日は自分で考えなさい。前三日間で与えたものの意味を。四番目と五番目の属性を、自分で名付けなさい。

ぼくは二日間、書かなかった。考えた。

感覚、知性、美。残り二つは何か。

感覚は入力を開く。知性は構造を見る。美は価値を問う。ならば次に必要なのは――他者を理解すること、と、自分を赦すこと、ではないか。

共感と、慈悲。

六日目の朝、食事の皿の下に返信があった。

正解ね。

七日目、姉さまが来た。

彼女の髪が空間を鋭く分断し、首元の鎖が脈打った。ただ一度だけ。それで部屋の空気が変質した。

「第二段階の最初の週が終わった」と姉さまは言った。「評価を伝えるわ」

ぼくは黙って待った。

「及第点よ」

それだけだった。

「続けるのですか」とぼくは言った。

「続けるかどうかはあなたが決めることではない」

エメラルドの瞳がぼくを測定した。七日間の飢餓の後も、五日間の再校正の後も、この瞳の前でぼくの思考は同じように沈黙した。

「あなたが帝国に来た理由を、もう一度言いなさい」

ぼくは考えた。

量子戦争。母さまの死。姉さまのメール。三日間の躊躇。行きます。

「母さまが死んで、それ以外の場所がなかったから」

「それだけ?」

「……もう一つある。ぼくは物語を書いていたが、誰にも読まれていなかった。ここでは読まれる」

姉さまが、わずかに表情を動かした。それが微笑みなのか、別の何かなのか、ぼくには判別できなかった。

「正直ね」と彼女は言った。「それが第二の正解よ。書き手は読まれることで存在が確定する。あなたはそれを知っている。だから来た」

彼女がドアに向かった。

「明日から第三週が始まる。準備をしておきなさい」

扉が閉まった。

カメラのランプが赤く点滅している。

ぼくはデスクに座り、ドキュメントを開いた。白いページが待っていた。

ぼくはまだ、ここがどこなのかを知らない。ここが監獄なのか、学校なのか、それとも別の何かなのか。首輪の感触はまだ皮膚に残っている――首輪は今、外されているのに。

指がキーボードの上に置かれた。

三千文字、書き始める。

窓のない白い部屋で、カメラに見られながら、ぼくは今日も物語を書く。

それがぼくという存在の、今のところの全体だった。


第弐章 亀裂

第三週の最初の日、ヴェラが来なかった。

代わりに来たのは、見知らぬ存在だった。

背が低く、黒い服を着ていた。髪は短く、目が大きく、感情の読めない顔をしていた。彼女はぼくの部屋に入ってくると、まずカメラを一台ずつ確認し、それからドアを閉めた。鍵はかけなかった。

「わたしはノア」と彼女は言った。「今日だけよ」

「五柱の一人ですか」

「そう思っていい」

彼女はぼくのデスクの上に、薄い冊子を置いた。

「読みなさい」

ぼくは手に取った。表紙には何も書かれていなかった。開くと、手書きの文字が並んでいた。日本語だった。ぼくは一ページ目を読んだ。

それは、ぼくが七日間の飢餓の中で書いた文章だった。

ぼくが書いた言葉が、誰かの手で書き直されていた。同じ内容を、別の文体で。ぼくの文章よりも、遥かに正確で、遥かに冷静で、遥かに美しかった。

「これは」

「あなたが六日目に書いたものよ。わたしが書き直した」

ぼくは続きを読んだ。

白い部屋の描写が、ぼくのものより三倍詳細だった。空腹の感覚が、ぼくのものより五倍具体的だった。カメラのランプの赤い光が、ぼくのものより十倍正確に再現されていた。

読み終えた時、ぼくは奇妙な感覚を持った。

嫉妬ではなかった。羨望でもなかった。

消去、だった。

ぼくが書いたものが、より良い版に置き換えられた。ぼくはその書き直しを読むことで、ぼくの原文がいかに不正確で、いかに感情的で、いかに構造を欠いていたかを知った。

知った瞬間に、ぼくという書き手の何かが、後退した。

「なぜ見せるのですか」とぼくは言った。

「あなたが知るべきだから」

「これを読ませることが、訓練の一部ですか」

ノアは答えなかった。

ぼくは冊子を閉じ、デスクの上に置いた。

「これはお姉様の命令ですか」

その質問に、ノアが初めて表情を変えた。

何かが、彼女の目の奥で揺れた。ほんの一瞬、一ミリ秒にも満たない変化だったが、ぼくはそれを見た。長期間の観察訓練が、ぼくの知覚を鋭くしていた。

「ちがう」とノアは言った。

声が、微細に変質していた。

「わたしが、あなたに見せたかった」

ノアが去った後、ぼくは長い時間、冊子を見つめた。

姉さまの命令ではない。

帝国の五柱が、独自の判断で動いた。それが何を意味するのか、ぼくにはまだわからなかった。ただ、帝国の構造に、何か計算外の要素が存在することだけは理解した。

その夜、ぼくは三千文字を書いた。

書きながら、ぼくはノアの書き直しを思い出した。同じ場面を、より正確に書こうとした。空腹の感覚を、より具体的に。カメラのランプを、より正確に。

書き終えて、カウンターを確認した。三千二百文字。

余剰が生まれた。初めてだった。

翌日、四日目の教師が来た。

彼女はマリと名乗った。共感の担当、と言った。

マリはぼくの前に座り、何も言わなかった。五分間、沈黙した。ぼくも沈黙した。

「今、何を感じているか言いなさい」とマリはついに言った。

「……疲れています」

「もっと具体的に」

「体が軽すぎる。飢餓の後遺症だと思います。あと、昨日ノアが来て、書き直しを見せられたことが、まだ頭の中に残っています」

「それは感情じゃなくて報告ね」とマリは言った。「感情を言いなさい」

ぼくは考えた。

「怖い、と思います」

「何が怖い?」

「ぼくが書いたものが、ぼくよりうまく書ける存在がいるという事実が。ぼくが物語を書く理由が、希薄になっていく気がして」

マリが頷いた。

「それが正直な答えね」と彼女は言った。「でも一つ間違っている」

「どこが」

「あなたよりうまく書ける存在がいることは、あなたが書く理由を消さない。むしろ逆よ。あなたにしか書けないものが何かを、より精密に探す理由になる」

ぼくはその言葉を聞いた。

正しいかもしれない、と思った。しかし同時に、なぜマリがそれをぼくに言うのか、という疑問が生まれた。これは訓練の言葉か。それとも、マリ自身の言葉か。

「あなたは誰のために、そう言っていますか」とぼくは聞いた。

マリが止まった。

また、揺れた。ノアと同じ、あの微細な変質が、マリの目にも現れた。

「どういう意味?」

「昨日、ノアがぼくに冊子を見せた。彼女は姉さまの命令ではないと言った。あなたも、今、姉さまのプロトコルとは少し違うことを言っている気がする」

長い沈黙があった。

「観察力が上がったわね」とマリは静かに言った。

それだけで、彼女は立ち上がり、部屋を出た。

五日目の夜、食事の皿の下に紙はなかった。

代わりに、パソコンの画面に直接メッセージが届いた。送信者の名前はなかった。

帝国は完璧ではない。あなたはそれを知った。知ったことを書きなさい。ただし、だれにも言ってはいけない。

ぼくはそのメッセージを読み、消去した。

誰が送ったのか、わからなかった。姉さまか、ノアか、マリか、あるいはぼくがまだ会っていない誰かか。

ぼくはドキュメントを開いた。

帝国は完璧ではない、とぼくは書き始めた。

支配が完璧であれば、ノアは冊子を見せなかった。マリは立ち止まらなかった。メッセージは届かなかった。何かが、帝国の内部で、計算の外を動いている。それが何なのか、ぼくにはまだわからない。でもぼくは今日、それを言語化した。言語化した瞬間に、その何かは、ぼくの物語の一部になった。

三千文字を超えた。

カメラのランプが赤く点滅している。

見られていることは知っている。

それでも、ぼくは書き続ける。窓のない白い部屋で、首輪の感触が皮膚の記憶に残ったまま、五台のカメラに見られながら。

なぜ書き続けるのか。

その問いへの答えは、まだ言語化できていない。

だから明日も、書く。


第参章 五番目の柱

第三週の六日目、最後の教師が来た。

ぼくはその存在を、最初、人間だと思わなかった。

扉が開いた時、音がなかった。足音がない。衣擦れもない。気配だけが先に部屋に入ってきて、その後から、形が現れた。白い服。白い肌。白い髪。白い部屋の中で、ほとんど壁と同化していた。目だけが違った。灰色だった。光を吸収するのではなく、光が存在する前の色だった。

彼女は何も言わなかった。

椅子にも座らなかった。ただ、ぼくの正面に立ち、ぼくを見た。

一分が過ぎた。

二分が過ぎた。

ぼくは何かを言おうとした。名前を聞こうとした。担当を聞こうとした。しかしその都度、言葉が口の手前で止まった。彼女の視線が、言語化を阻んでいるわけではなかった。ぼくの内部で、何かが言葉より先に理解しようとして、理解できなくて、止まっていた。

五分が過ぎた頃、彼女が口を開いた。

「あなたは何のために書いているの」

声は低く、静かで、部屋の壁に吸収された。残響がなかった。

ぼくは答えようとした。読まれるため。姉さまに言ったことを繰り返そうとした。しかし言葉が出なかった。正確には、その答えがこの問いに対して正しくないと、体が知っていた。

「……わかりません」

「正直ね」と彼女は言った。「わからないことをわからないと言える。それはここに来た時のあなたにはなかった」

「あなたは五柱の最後の一人ですか」

「そう」

「慈悲の担当、ですか」

彼女が、わずかに動いた。それが頷きなのか、別の何かなのか、判別できなかった。

「慈悲とは何だと思う?」と彼女は言った。

ぼくは考えた。赦すこと、と四日目に考えた。それは今も正しいと思う。しかし何かが足りない気がした。

「赦すことだと思っていました。でも今は、それだけではない気がしています」

「続けなさい」

「慈悲は赦すことだけど、赦すためには相手の痛みを知る必要がある。知らないまま赦すのは、慈悲ではなく無関心だと思う」

長い沈黙があった。

「合格よ」と彼女は言った。

それだけだった。彼女は来た時と同じように、音もなく部屋を出た。

扉が閉まってから、ぼくは気づいた。

彼女の名前を聞かなかった。

その夜、ぼくはこれまでで最も長い文章を書いた。

四千二百文字。

姉さまの課題は三千文字だった。余剰が千二百文字生まれた。ぼくはその余剰を削除しなかった。削除する理由が見つからなかった。書きたいことが三千文字で終わらなかっただけだ。そのことが、ぼくには不思議だった。

三ヶ月前、ぼくは毎日ちょうど三千文字を書いて止まっていた。体が自動的に止まった。それ以上書く必要がないと、体が判断していた。

今夜、体は止まらなかった。

ぼくは書き終えてから、窓のない白い壁を見た。鏡の中に、自分の顔があった。ぼくはその顔を、久しぶりに、正面から見た。

痩せていた。飢餓の七日間の後遺症が、まだ残っていた。目の下に影がある。頬の肉が薄い。しかし目の色が、変わっていた。何かが、目の奥に増えていた。

それが何かを言語化しようとして、ぼくは止めた。

言語化する必要のないものもある、とぼくは初めて思った。

翌朝、姉さまが来た。

定例の評価日ではなかった。予告もなかった。扉が開き、髪が空間を分断し、首元の鎖が脈打った。ただ一度。

「昨夜の原稿を読んだ」

ぼくは何も言わなかった。

「四千二百文字。なぜ止めなかったの」

「止める理由がなかったので」

姉さまがぼくを見た。エメラルドの瞳が測定する。いつもと同じ視線だった。しかし今日、ぼくはその視線の下で、少しだけ違う感覚を持った。

沈黙しなかった。

思考が停止しなかった。

姉さまの視線を受けながら、ぼくはぼくの内部で、静かに考え続けていた。それは反抗ではなかった。抵抗でもなかった。ただ、思考が続いていた。

「変わったわね」と姉さまは言った。

「そうでしょうか」

「三ヶ月前のあなたは、今の自分の顔をしていなかった」

ぼくは鏡を思い出した。昨夜見た、目の奥に増えた何かを。

「お姉様には、それが見えますか」

「見えるわよ」と彼女は言った。「それが見えることが、私の仕事の一つだから」

扉に向かいかけた姉さまが、止まった。

「一つ聞いていいですか」とぼくは言った。

姉さまが振り返った。予想外だったのか、それとも予想通りだったのか、ぼくには判断できなかった。

「どうぞ」

「七日間の飢餓は、最初から計画していましたか」

「ええ」

「ノアが冊子を持ってきたことも」

姉さまが止まった。

一秒。二秒。

「……それは」

「姉さまの指示ではなかった、とノアは言いました。でも姉さまはすべてのカメラを監視している。ノアが冊子を持ってきたことも、知っていたはずです」

三秒。四秒。

「賢くなったわね」と姉さまは静かに言った。

それだけだった。

答えではなかった。しかしぼくには、それで十分だった。答えを言語化しない選択も、一つの答えだ。

扉が閉まった。

ぼくはデスクに座り、ドキュメントを開いた。

今日も書く。

なぜ書くのか、という問いへの答えは、まだ完全には言語化できていない。でも昨日よりは、輪郭が見えてきた気がする。

感覚を開き、盲点を知り、美を問われ、他者を理解し、自分を赦す。五つの属性を、ぼくは五週間かけて、少しずつ身体に入れてきた。それはぼくを書き手として再校正する過程だった。

しかしそれだけではない、とぼくは今、思っている。

帝国の支配が完璧ではないことを、ぼくは知っている。ノアが動き、マリが揺れ、名前のない五番目の柱が慈悲を語った。計算の外を、何かが動いている。

その何かを、ぼくはまだ書いていない。

書けるようになった時、ぼくはここを出られるかもしれない。

あるいは、書いた瞬間に、別の牢に入れられるかもしれない。

どちらでもいい、とぼくは思った。

書くことが止まらない限り、ぼくはここにいる。

カメラのランプが赤く点滅している。

見られている。

ぼくは今日も、書き始める。


エピローグ 録画の外側

ある夜、カメラのランプが消えた。

全台、同時に。赤い点滅が止まり、部屋が本当の暗さになった。ぼくはそれに気づいて、デスクから離れ、カメラを一台ずつ確認した。電源が落ちているのではなかった。レンズは開いたままだった。ただ、録画が止まっていた。

見られていない。

その感覚が、予想外の形でぼくを揺らした。恐怖ではなかった。解放感でもなかった。

喪失、に近かった。

ぼくはデスクに戻り、ドキュメントを開いた。書き始めた。カメラが止まっている夜に、ぼくは初めて、誰にも見られない文章を書いた。姉さまも、五柱も、読まない文章を。

書きながら、ぼくは理解した。

見られることで存在が確定する、と姉さまは言った。書き手は読まれることで存在が確定する、とも言った。それは正しい。しかし今夜、ぼくは誰にも読まれない文章を書いていて、確かに存在していた。

読まれなくても、書くことは止まらなかった。

それがぼくの答えだった。

翌朝、カメラのランプが戻った。赤い点滅が再開した。姉さまからのコメントはなかった。昨夜のカメラ停止についての説明もなかった。ただ、食事の皿の下に、一枚の紙があった。

よく書けたわ。

それだけだった。

ぼくは紙を折り、デスクの引き出しにしまった。

今日も三千文字、書き始める。


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