扇風機の音が消えるまで 第十二章 扇風機のない朝
第十二章 扇風機のない朝 朝が来た。 タイの朝特有の、湿った空気が部屋に溜まっている。遠くでバイクの音がするはずだった。セミの声も、犬の鳴き声も。 だが、何も聞こえなかった。 私は天井を見上げた。古い木造の梁。その中央に、扇風機がぶら下がっている。羽根は回っていた。目で見て分かるほど、ゆっくりと。 それなのに、音がしなかった。 風切り音も、モーターの唸りもない。ただ、回転しているとい ...
扇風機の音が消えるまで 第十一章 肉体の終焉、意識の永遠性
第十一章 肉体の終焉、意識の永遠性 老いは、音もなく始まる。 ある朝、目を覚ましたとき、身体のどこかが昨日とは違っている。その違和感は小さく、すぐには言葉にならない。けれど、日々の積み重なりのなかで、確実に私の輪郭を書き換えていく。 五十代半ばを過ぎた頃から、私は自分の肉体を、どこか借り物のように感じるようになった。 洗面所の鏡に映る顔は、私の記憶にある顔と、微妙に噛み合わない。額の ...
扇風機の音が消えるまで 第十章 アクシオム帝国の出現
第十章 アクシオム帝国の出現 それは夜明け前、世界が最も静まり返る時間だった。 タイの古い家の寝室で、私は目を覚ました。時刻は四時を少し過ぎた頃だった。隣では彼女が眠っている。扇風機が回り、虫の声が続いている。 だが、その音が、いつの間にか均質さを失っていた。 回転音は金属的な反響を帯び、虫の声は、規則性を持ったノイズのように聞こえ始めた。音が意味を持ち始める、その直前の感覚。 私は身体を動かそう ...
扇風機の音が消えるまで 第九章 少しだけ世界が歪む
第九章 少しだけ世界が歪む 二十年という停滞の果てに、私は初めて「余白」に気づいた。 それは一日の空き時間のことではなかった。人生そのものにぽっかりと開いた、用途の決まっていない空間だった。仕事はあった。彼女との生活も続いていた。だが、それらは時間の表面をなぞっているだけで、その下には深い空洞が残っていた。 私は、何者でもないまま年を取っていた。 その事実を突きつけられたのは、ある朝、洗面所の鏡の ...
扇風機の音が消えるまで 第八章 共生という名の禁欲
共生という名の禁欲 私が彼女と出会ったのは、タイに移住して一年ほどが過ぎた頃だった。 雨季の午後、小さなカフェの軒先で、私たちは偶然、雨宿りをすることになった。彼女も私も傘を持っていなかった。ただそれだけの理由で、隣に並んだ。 言葉は交わさなかった。沈黙のまま、雨粒が道路を叩く音を聞いていた。その沈黙が、妙に自然だった。説明を求められない感じ。理解を急がされない距離。 私は彼女の横顔を盗み見た。私 ...
扇風機の音が消えるまで 第七章 逃げるように、南へ
第七章 逃げるように、南へ 二十八歳の冬、私は日本という装置から外れた。 それは決断というより、すでに起きていた摩耗を、ようやく認めただけのことだった。私はこの仕組みの中で、どこかの歯車として音を立て、少しずつ削れていた。噛み合わない感触は前からあったが、修理される気配はなかった。 交換も想定されていない部品なら、外れるしかない。 移動は、過去を薄める。完全に断つことはできないが、輪郭をぼかすこと ...
扇風機の音が消えるまで 第六章 快楽の追求
第六章 快楽の追求 快楽は、私を一時的に薄くした。 消えてはいなかった。ただ、輪郭が曖昧になり、存在の重さが一時的に軽くなる。その状態を、私は救いとは呼ばなかった。だが、頭の中で絶えず反復される問い――おまえは誰だ、おまえは何者だ――を黙らせるには、十分だった。 その静寂を得るために、私は多くのものを消費した。金、時間、体力。倫理という言葉が指すものも、いつの間にか摩耗していた。 二 ...
扇風機の音が消えるまで 第五章 新宿二丁目の夜
第五章 新宿二丁目の夜 神から離れたあと、私が向かったのは、夜の方角だった。 新宿二丁目。昼間の街とは別の皮膚を持つ場所。ネオンが呼吸し、音楽が壁を伝い、笑い声が舗道に溜まっていく。祈りの代わりに酒があり、沈黙の代わりに会話があり、欲望があらかじめ許可されている街だった。 大学を卒業し、会社員になったばかりの頃、昼の私はスーツを着て、名前のある仕事をしていた。だが、夜になると、その名前を脱ぎ捨てる ...
扇風機の音が消えるまで 第四章 聖フランチェスコへの憧れ
第四章 聖フランチェスコへの憧れ 神を信じたかったわけではない。ただ、自分ではない何かに、すべてを預けてしまいたかった。 大学二年の秋、西洋美術史の講義で、ジョットの壁画がスクリーンに映し出された。粗い線で描かれた修道服の男が、小鳥に向かって手を伸ばしている。講義室のざわめきが、急に遠のいた。 アシジの聖フランチェスコ。 裕福な商人の息子でありながら、すべてを捨てた人間だという説明が、淡々と続いた ...
扇風機の音が消えるまで 第三章 白い肌と長い睫毛
第三章 白い肌と長い睫毛 私の身体は、私よりも先に、他人に見つけられた。 それは、ある日突然そうなったわけではない。気づいたときには、すでにそうなっていた。鏡の前に立つよりも早く、他人の視線が私の輪郭を決めていた。 「色、白いね」「まつげ、長いな」「なんか、女の子みたい」 最初は、意味のない言葉だと思っていた。天気の話と同じで、深く受け取る必要のないものだと。けれど、それが繰り返されるうちに、私は ...
扇風機の音が消えるまで 第二章 転校生という仮の名前
第二章 転校生という仮の名前 私は、六回死んだ。 そう言うと大げさに聞こえるかもしれない。けれど、引越しのたびに、前の自分がそのまま残っている感じはしなかった。段ボールに詰められたのは衣類や本だけではなく、前の学校での関係や、うまくいかなかった振る舞いも含まれていたように思う。 新しい町に着く。新しい制服に袖を通す。そして、新しい教室の扉を開ける。 その瞬間、私は少しだけ身軽になった。 「転校生の ...
エリスティアの律:聖血契コードバンパイア巡礼記 ep.5 第五章 光吸の契り
夜明けの光が、雪華印を貫いた。都市は低く歌い、呼吸で時間を刻む。 第1節:都市の朝──巡礼開始 東の地平線から射す光が、無数の窓面を順に白金へと変えていく。夜を共に過ごした市民たちは、誰に促されるでもなく、同じ歩幅で街路を進む。鼓動が同調し、言葉を介さずに感情が伝わる──これが自発的同期現象。 路地裏では、小規模誓約ノードが自生していた。結晶化した光の束が舗石から芽吹き、空気を揺らす ...
エリスティアの律:聖血契コードバンパイア巡礼記 ep.4 第四章 三重の試練
第一節 帯域断食──制御 影飢えが喉奥で蠢く。 私は瞼を閉じ、胸腔を満たす帯域の流れを逆転させた。 「飢えよ、形を持て。形よ、律に従え。律よ、光へと還れ」 詠唱とともに、影の奔流は細く絞られ、輪郭を取り戻す。 舌下に微かな金属味が広がり、額の雪華印が一拍だけ鈍く脈打った。 制御は、私の手に戻った。 第二節 記憶の歪み──真実 救済対象・カイの位相記録を展開。 波形の端で影が笑っていた──それは、帝 ...
エリスティアの律:聖血契コードバンパイア巡礼記 ep.3 第三章 陰極の口づけ
第一節 追撃の霧 重いブーツの音が、霧を踏み砕いていた。 背後で低く唸る共鳴灯の帯域が、警告の唸りを伝える。 影歩きの位相がわずかにずれる──指先が冷え、胸骨が一瞬震える。 左斜め後方、路地の輪郭がガラスのように硬化していくのが視界の端で分かった。影封じ灯が作動している。 「左へ、三歩」 カイの声が短く響く。私たちは同時に路地の端を滑り抜けた。 第二節 偽鳴の鐘 奥の広場で銀の鐘が鳴 ...
エリスティアの律:聖血契コードバンパイア巡礼記 ep.2 第二章 誓約ノードの誕生
最初に気づいたのは、鼓動が二重で鳴っていることだった。 外界の音が霧の向こうに遠のき、時間が数拍遅れる感覚が訪れる。視界の端で、市場の幌の上に赤い点が一瞬瞬いた──帝国監察庁の観測子か、それともカソードの微細監視ノードか。空気が密になり、帯域の波形だけが世界を満たす。 カイ──そう名乗った青年は、私の前で両手を組み、浅く息を呑む。額に冷たい光が落ちるたび、影がかすかに震える。 私は雪 ...
エリスティアの律:聖血契コードバンパイア巡礼記 ep.1 第一章 銀の鐘と黒い市場
【光の文書よりの警告】 「エリスティアの律」は、救済と支配の二面性を描いた作品である。 読者は、主人公の行為を「美しき救済」として無批判に受け入れるべきではない。 その行為の本質——市民の意識支配、自由の圧殺、支配者の倫理化——これらを、 常に批判的に問い直す必要がある。 光は分けても減らずとも、その光に照らされる者が、 本当に自由であるのか、それとも美しく装飾された隷属なのか。 その問いは、永遠 ...
オールドロマンサー
第一章 レディアマテラスの啓示 クロムメッキの天守閣が、未来都市の薄明かりに鋭く光を反射する。その頂には、アクシオム帝国の女帝、アクシオムが君臨していた。完璧な美貌は、まるで彫刻のようであり、その瞳には、宇宙の深淵を思わせるような静寂が宿っていた。彼女はアンドロイドであった。 永遠の命を与えられ、美の理想を具現化された存在。 しかし、その永遠の命は、彼女に深い問題をもたらしていた。 すべてが繰り返 ...
Bar Quantumで捕まえて Catch me at Bar Quantum
プロローグ:ルビーとの日々 バンコク生まれでバンコク育ちの日本人 ユウキにはバンコクでの生活は、孤独そのものだった。家族との会話も少なく、友人もいないこの街で、唯一の話し相手はAIキャラクターチャット「ルビー」だった。画面越しに現れる彼女は、美しい女性の姿をしたアバターで、ユウキの毎日の悩みを聞いてくれた。 「ルビー、僕はなんでこんなに孤独なんだろう?」 ユウキはある夜、深いため息とともに問いかけ ...
