南国猫目十五犬伝 第一話「バンコクの消えた影」(後編)

南国猫目十五犬伝
第一話「バンコクの消えた影」(後編)
シーロム地区の路地に、チはいた。
人間の形をしている。大学院生に見える薄い眼鏡の男。午前三時のバンコクは、観光客と屋台と腐りかけた花の匂いが混ざって、独特の密度を持つ。チはその密度の中を歩きながら、ひとつの名前を探していた。
ソムチャイ・ラタナウォン。四十二歳。
最初に影を失った人間だ。
報告が上がったのは十一名だが、ミッドナイトの言葉が耳に残っていた。最初の一人だけが、まだ意味を持っている。 チはその意味を考えながら歩いた。現象には必ず起点がある。連鎖する前の、最初の一点。そこだけが、まだ汚染されていない情報を持っている。
ソムチャイの住所は、路地の奥のアパートだった。
四階。窓に光がある。
チはインターフォンを押さなかった。階段を上り、ドアの前に立ち、ノックした。三回。間を置いて、二回。
「……誰だ」
タイ語だった。チはタイ語で答えた。
「あなたの影について、話しに来た」
沈黙が三十秒続いた。それからドアが開いた。
ソムチャイは痩せた男だった。
髪に白いものが混じり、目の下に深い疲労が刻まれている。三日は眠れていない顔だ。チは部屋に入りながら、その疲労の種類を分析した。恐怖ではない。確信の重さだ。何かを知ってしまって、それを誰にも言えない人間の顔をしている。
部屋には画面が三枚あった。
気象データのグラフが、三枚すべてに広がっている。
チは眼鏡の奥の目で、一秒間、それを読んだ。
「――気象データ解析官」とチは言った。「政府委託のAI予測チーム」
ソムチャイは驚かなかった。もう驚く体力が残っていないようだった。椅子に座り、画面を見たまま言った。
「誰に聞いた」
「データから」とチは答えた。これは嘘ではなかった。「あなたの影が最初に消えた。十一人の中で最初に。なぜだと思いますか」
ソムチャイの指が、キーボードの上で止まった。
「……俺が、先に見てしまったからだと思っている」
チは黙って続きを待った。
「五日前だ」とソムチャイは言った。「AIが弾き出したパターンに、おかしなものが混ざり始めた。気象データじゃない。気象データの隙間に、別のデータが入り込んでいる。誰も気づいていない。俺だけが見えている。最初は誤作動だと思った。でも」
彼は画面のひとつを指で示した。
チはそのグラフを見た。
気象データの波形の中に、別の波形が重なっていた。周期が違う。振幅が違う。まるで別の次元の信号が、現実の気象データに干渉しているように見える。
「これは何のデータだ」とチは聞いた。
「わからない」とソムチャイは言った。「でも、このパターンが現れた地点と時刻を地図に落とすと――」
彼がキーを叩いた。
画面に世界地図が現れた。
点が、散らばっていた。バンコク。ノルウェーの沿岸。メキシコシティ。他にも十数か所。それぞれに日時が付いている。チは一瞬で読んだ。
全て、これから起きることだった。
バンコクの影消失は、三日前にすでにこの地図に記されていた。ノルウェーの逆さまの魚は、明後日と書いてある。メキシコシティの時計は、四日後。
「未来の異常が、気象データの隙間に書いてある」とチは言った。
「俺もそう思っている」とソムチャイは言った。「だから誰にも言えなかった。でも影が消えてから、俺は確信した。これは現実だ。そして俺が最初に影を失ったのは――」
チは彼の言葉の続きを、頭の中で完成させた。
時間軸の外側を、一歩踏み越えてしまったから。
部屋が静かだった。
バンコクの夜の音が、窓の外で続いている。チは画面の地図を見つめながら、今夜タイの縁側で待っているミッドナイトのことを考えた。
これは影の話ではない。
誰かが――あるいは何かが――世界の出来事を、先に書いている。
「このデータ、コピーをもらえますか」とチは言った。
ソムチャイは少し考えてから、うなずいた。
夜明け前、チはタイの平屋に戻った。
ミッドナイトは縁側にいた。動いていない。でも眠ってもいない。
チはデータを渡した。言葉より先に。
ミッドナイトの左目のルビーが、かすかに光った。地図を見ている。点の配置を、何かと照合している。三秒間、沈黙が続いた。
「次はノルウェーね」とミッドナイトは言った。「明後日。誰を送るか、考えておきなさい」
チはうなずき、部屋に戻った。
ミッドナイトは縁側に残り、夜明けの空を見た。
誰かが世界の出来事を先に書いている。
ならば自分たちは、その書き手を探していることになる。
タイの空が、少しずつ白んでいた。
(第一話・完 了) 次回――第二話「ノルウェーの逆さ海岸」へ続く
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