アンドロイドはパタヤに死す
第一章:悪魔たちの楽園
奇妙な約束だった――そう振り返ることができるほど、ジュンは賢明でも冷静でもなかった。
時計は夜の8時を指している。パタヤのビーチは、昼間とはまったく違う生き物に変貌していた。バンコクが「天使たちの街」ならば、ここは間違いなく「悪魔たちの街」だろう。邪悪な欲望と計算が、腐敗した果実のような甘い匂いと共に立ちのぼる。ネオンの光が波打ち際まで這い、人々の瞳には剥き出しの渇望だけが宿っている。
世界で最も邪悪で、最も正直な場所。
そんな猥雑な光景の中で、ジュンの視線は一点に釘付けになっていた。赤いビキニの二人連れ。その鮮烈な赤と、雪のように白い肌のコントラストは、まるで切り裂かれた傷口のように美しかった。サングラスの奥の表情は読めないが、彼女たちだけが、この退廃的なビーチで異質な冷たさを放っていた。
結局、ジュンは彼女たちに話しかけることができなかった。一日中、視界の端に捉えながらビールを飲み続けていただけ。自分の臆病さに、もう何度目かわからない自己嫌悪を覚えていた。
「ケプタン、ジュアイ(お勘定して)」
席を立とうとした、まさにその瞬間だった。
目の前に、赤と白の色彩が立ちはだかった。
「アナタ、ニホンジン、デスカ」
片言の日本語。声は見た目よりも幼く、どこか機械的な平坦さがあった。
「日本人だけど……」
ジュンは動揺した声で答えた。近くで見ると、彼女の肌は異様なほど白く、まるで一度も太陽を浴びたことがないかのようだった。
「ワタシハ、アンナ。アメリカジン」
彼女は周囲を警戒するように振り返り、そしてジュンの手を取った。その手は、南国の夜だというのに、死体のように冷たかった。
「オネガイ、アリマス」
「コレ、モッテイテ、クダサイ。アシタ、ココ、クルカラネ」
握らされたのは、一本の鍵。重く、無機質な金属の塊。キーホルダーには、見たこともない幾何学模様の文字が刻まれている。
「え、なんで僕に……?」
「アシタ、ココ、ヨル6ジ。オネガイ」
(これはチャンス、か?)
ジュンの脳内で、下品な期待が囁く。知らない女、見知らぬ鍵、夜6時の約束。碌でもない匂いしかしないのに、心臓だけは期待に高鳴っていた。
「OK、OK!明日、ここに6時ね」
それから、ずっと気になっていたことを口にした。
「だけど、お願い。サングラス、テイクオフ、プリーズ」
一瞬、アンナの動きが止まった。躊躇うように、そしてゆっくりとサングラスを外した。
そこに現れたのは、予想外の顔だった。
ファム・ファタールの妖艶さなど微塵もない、あまりに素朴で、どこか怯えた田舎娘の瞳。だが、その瞳の奥だけが違った。深い、底知れない何かが宿っているように見えた。まるで、長い長い時間を生きてきた者の目のように。
アンナは哀れなほど弱々しく微笑むと、パタヤのネオンの海へと溶けるように消えていった。
ジュンは掌に残る鍵の冷たさを握りしめた。だが彼は気づいていなかった――その鍵が、快楽への扉ではなく、地獄の蓋を開けるためのものだということに。
第二章:空虚な約束
翌日の夕方6時。約束のビーチは、昨日と同じように欲望の熱気で満ちていた。
だが、アンナは現れなかった。
6時が過ぎ、6時半が過ぎた。ビーチは夕暮れの茜色に染まり始めた。ジュンは苛立ちと共にビールを煽り、キーホルダーを見つめた。奇妙な文字が、夕日を反射して不気味に光っている。
酔狂な幻覚ではない。現実に、彼は待たされているのだ。
アルコールが思考を鈍らせ、彼はそのままビーチチェアで微睡んだ。
第三章:使者の警告
「おにいちゃん、目ェ覚ましてや」
粘り着くような関西弁に、ジュンは瞼を持ち上げた。目の前に立っていたのは、胡散臭い風貌の男だった。その目は笑っていなかった。
「何でしょうか」
ジュンは警戒心を隠さず言った。
「これ、アンナからや。読んでや」
差し出されたのは、一枚の紙切れ。だが、その内容は正気を疑うものだった。
私はアンドロイドです。未来から来ました。
組織に狙われています。その鍵は、私をリセットするための起動キーです。
この手紙をあなたが読んでいる今、私の機能は停止し、ラン島の暗い海底に沈んでいることでしょう。
お願いです。私の体を探し出し、その鍵でリブートしてください。
私の体内には、人類を滅亡させるレベルの核爆弾が埋め込まれています。
爆発まで、残り時間は僅かです。
人類を救えるのは、その鍵を持つあなただけなのです。
――アンナ
ジュンは鼻で笑った。
「なんだこれは」
悪い冗談だ。新手の詐欺か、薬中の妄想か。未来から来たアンドロイド?核爆弾?まるでB級映画の脚本だ。それに、あの片言の彼女が、こんな流暢な日本語を書けるだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
ジュンは手紙を丸め、ゴミ箱へと放り投げた。
男は何も言わず、ただ憐れむような目でジュンを見ていたが、やがて無言で立ち去った。
「映画じゃないんだから」
ジュンは自分に言い聞かせた。現実はもっと退屈で、もっと安全なのだ。
第四章:常識という名の愚行
ジュンは残りのビールを飲み干し、パタヤを去った。鍵はホテルの部屋の机に置き忘れたまま。日常が戻ってくる。退屈で、平和で、常識的な日常が。
バンコクで観光を楽しみ、アユタヤ遺跡を訪れた。崩れた仏像を見ながら、彼は考えた。
「文明は滅びる。でも、それは何千年もかけてゆっくりと起こることだ。三日で地球が消えるなんて、ありえない」
時々、あの鍵のことを思い出した。だが、すぐに頭を振って忘れようとした。
「もし、本当だったら?」
その疑問が脳裏をよぎる度に、彼は笑い飛ばした。自分が世界を救うなんて、柄じゃない。映画の中の誰かに任せておけばいい。
第五章:静寂なる終末
そして三日後。
ジュンが帰国便の機内でコーヒーを啜っていた時、窓の外が「白」に染まった。
音はなかった。
痛みもなかった。
ただ、圧倒的な光だけがあった。
地球という惑星は、一人の男の「常識的な判断」によって、宇宙空間から静かに、そして完全に消滅した。
残ったのは、無音の虚無だけ。
そこには、誰も泣く者はいない。
誰も後悔する者はいない。
ただ、静寂が広がるだけ。
遠い未来、別の銀河系の知的生命体が、この宙域を調査したとき、彼らはこう記録するだろう。
「かつて惑星が存在した痕跡がある。だが、その消滅原因は不明。量子レベルで完全に消去されており、復元は不可能」
そして、誰も知らない。
一人の男が、たった一つの選択を間違えたことが、すべての原因だったことを。
彼の名前すら、もう誰も覚えていない。
歴史から、完全に消えたのだから。
――終――
[終]
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