アンドロイドはパタヤに死す

奇妙な約束

奇妙な約束だった――そう振り返ることができたなら、ジュンはもっと賢明だっただろうし、もう少し冷静でいられたはずだった。

時計が夜の八時を指していた。パタヤのビーチは、昼間とはまるで違う生き物のように変わっていた。バンコクを「天使たちの街」と呼ぶのなら、ここは疑いようもなく「悪魔たちの街」だ。そこには邪悪な欲望と打算が、腐りかけた果実のような甘い匂いと一緒に立ち込めていた。

ネオンの光は波打ち際まで這い寄り、人々の目には剥き出しの渇望だけが宿っている。

――世界で最も邪悪で、 shreds そして最も正直な場所。

そんな猥雑な光景の中で、ジュンの視線はある一点に釘付けになっていた。赤いビキニの二人連れ。その鮮烈な赤と、雪のように白い肌との対比は、まるで切り裂かれた傷口のように目を引いた。

サングラスの奥の表情は窺い知れないが、退廃的なこのビーチにおいて、彼女たちだけが異質な冷たさを放っているように見えた。

突如訪れた接触

結局、ジュンは彼女たちに話しかけられずにいた。一日中、視界の端に捉えながら、ただビールを飲み続けているだけだった。自分の臆病さに、もう何度目になるか分からない自己嫌悪を覚えていた。

「ケプタン、ジュアイ」

席を立とうとした、ちょうどその時だった。 目の前に、あの赤と白の色彩が立ちはだかった。

「アナタ、ニホンジン、デスカ」

片言の日本語だった。声は見た目よりも幼く、どこか機械的な平坦さがあった。

「日本人だけど……」

ジュンは動揺しながら答えた。近くで見ると、彼女の肌は異常なほど白く、まるで一度も太陽を浴びたことがないかのようだった。

「ワタシハ、アンナ。アメリカジン」

彼女は周囲を警戒するように一度振り返り、それからジュンの手を取った。その手は、南国の夜だというのに、死体のように冷たかった。

「オネガイ、アリマス」 「コレ、モッテイテ、クダサイ。アシタ、ココ、クルカラネ」

握らされたのは、一本の鍵だった。ずしりと重く、無機質な金属の塊。キーホルダーには、これまで見たことのない幾何学模様の文字が刻まれていた。

「え、なんで僕に……?」 「アシタ、ココ、ヨルロクジ。オネガイ」

これは、もしかしてチャンスなのだろうか? ジュンの脳裏に、いくらか下品な期待が囁いた。知らない女、見慣れない鍵、夜六時の約束。碌でもない匂いしかしないというのに、心臓だけは期待に高鳴っていた。

「OK、OK!明日、ここに六時ね」

それから、ずっと気になっていたことを口にした。

「だけど、お願いがある。サングラス、テイクオフ、プリーズ」

一瞬、アンナの動きが止まった。躊躇うようにして、彼女はゆっくりとサングラスを外した。

そこに現れたのは、予想とは違う顔だった。 ファム・ファタールの妖艶さなど微塵もない、あまりに素朴で、どこか怯えた田舎娘のような瞳。だが、その瞳の奥だけが違っていた。深く、底知れない何かが宿っているように見えたのだ。

まるで、長い長い時間を生きてきた者の目のように。

アンナは、哀れなほど弱々しく微笑むと、パタヤのネオンの海へと溶けるように消えていった。

破られた約束と「手紙」

ジュンは掌に残る鍵の冷たさを握りしめた。だが彼はまだ気づいていなかった――その鍵が、快楽への扉ではなく、やがて地獄の蓋を開けるためのものだということに。

翌日の夕方六時。約束のビーチは、昨日と同じように欲望の熱気で満ちていた。 しかし、アンナは現れなかった。

六時が過ぎ、六時半が過ぎた。ビーチは夕暮れの茜色に染まり始めた。ジュンは苛立ちとともにビールを煽り、手の中のキーホルダーを見つめた。奇妙な文字が、夕日を反射して不気味に光っている。

酔狂な幻覚ではなかった。現実に、彼は待たされているのだ。 アルコールが思考を鈍らせ、ジュンはそのままビーチチェアでうとうとと微睡んだ。

「おにいちゃん、目ェ覚ましてや」

ねっとりとした関西弁に、ジュンは瞼を持ち上げた。目の前に立っていたのは、胡散臭い風貌の男だった。その目は笑っていなかった。

「何でしょうか」

ジュンは警戒心を隠さず言った。

「これ、アンナからや。読んでや」

差し出されたのは、一枚の紙切れだった。だが、その内容は正気を疑うものだった。

【アンナからの手紙】

私はアンドロイドだと言い、ここより二五〇年後の未来、別次元に存在する「アクシオム帝国」から派遣された使者である。

私たちの世界では、人類は争いと戦争を絶え間なく繰り返し、自らの愚かさで魂を摩滅させていった。それを見かねたアクシオム皇帝は、これ以上の苦痛と過ちから人類を解放するため、大いなる『慈悲の心』をもって、この時空の地球を完全に消滅させる決定を下したのだ。

自分はその執行者だが、この世界に触れ、滅ぼすにはあまりに惜しい輝きを知ってしまった。自分は組織に背き、狙われている。あの鍵は、私の機能をリセットし、消滅プロセスを停止するための起動キーなのだ。

この手紙が読まれる頃には、自分の機能は止まり、ラン島の暗い海底に沈んでいるだろう。

お願いです。私の体を探し出し、あの鍵でリブートしてほしい。私の体内にある次元崩壊爆弾のカウントダウンは、すでに始まっている。人類の歴史をここで終わらせるか、それともまだ見ぬ未来へ繋ぐか。その選択は、鍵を持つあなたに委ねられました。

日常という名の傲慢

ジュンは鼻で笑った。

「なんだこれは」

悪い冗談としか思えなかった。新手の質の悪いナンパか、あるいは新興宗教の勧誘か。二五〇年後の未来?アクシオム帝国?皇帝の慈悲?まるで安っぽいSF映画のプロットではないか。

「……馬鹿馬鹿しい」

ジュンは手紙を丸め、近くのゴミ箱へと放り投げた。

男は何も言わず、ただひどく哀しそうな目でジュンを見つめていたが、やがて潮風に溶けるように無言で立ち去った。

「映画じゃないんだから」

ジュンは自分に言い聞かせた。現実はもっと退屈で、もっと安全なのだ。彼はポケットの中の冷たい鍵に触れたが、それをただの「不気味な土産物」として処理することに決めた。

ジュンは残りのビールを飲み干し、パタヤを去った。しかし、どうしてかあの鍵を捨てることだけはできず、ホテルの部屋の机に置いたまま、バンコクへと向かった。

日常の喧騒が戻ってきた。退屈で、平和で、常識的な日常が。

バンコクの寺院を巡り、アユタヤの広大な遺跡を訪れた。何百年も前に戦火で崩れ、頭部を失った仏像たちの姿が、夕日に照らされている。ジュンはその光景を見つめながら、ふとアンナの手紙を思い出した。

「人類は、いつでも争ってばかりだ」

確かに手紙の言う通りかもしれない。文明は常に血を流し、壊し合ってきた。だが、それが人間というものだ。

「それでも、三日で世界が消えるなんてありえない。文明ってのは、もっと何千年もかけてゆっくりと変わっていくもんだ」

彼は自嘲気味に笑った。自分が世界を救う救世主だなんて。そんな柄じゃない。もし本当に世界が危ないのなら、映画の中の英雄か、ホワイトハウスの誰かがなんとかすればいいのだ。

日常という名の傲慢が、彼の視界を心地よく曇らせていた。

完璧な救済、美しい静寂

そして、約束から三日後の夕暮れ。

ジュンは帰国便の機内にいた。窓の外には、夕日に染まる美しい雲海が広がっている。プラスチックのカップに注がれたコーヒーを啜りながら、彼はようやく手元に残ったあの奇妙な鍵を眺めていた。幾何学模様の刻印が、機内のライトを浴びて鈍く鈍く光っている。

そのときだった。

窓の外の景色が、一瞬にして鮮烈な「白」に染まった。

夕日の赤も、雲の青も、すべてを飲み込む圧倒的な光。それは、アクシオム皇帝が下した、すべての苦痛から人類を解き放つという、絶対的な『慈悲』の顕現だった。

信じられないことに、音は全くなかった。衝撃も、引き裂かれるような痛みすらもなかった。

ただ、世界が、激しい愛に包れるようにして、優しく、そして完全に融解していく。

ジュンは、手の中の鍵がサラサラと光の粒子になって崩れていくのを見た。その瞬間、彼の脳裏に、あのパタヤのビーチでサングラスを外したアンナの瞳が、鮮明に蘇った。

あの底知れない瞳に宿っていたのは、恐怖ではなかった。いつまでも過ちを繰り返し、傷つけ合う人類への、狂おしいほどの愛おしさと、救えないことへの絶望だったのだ。

「ああ……そうか」

ジュンは初めて理解した。彼女はチャンスをくれていたのだ。この愚かで、美しく、愛すべき世界を、もう一度だけ信じるためのチャンスを。自分が「常識」という名の臆病さに逃げ込まなければ、この光の向こう側にある未来を変えられたかもしれないのに。

ジュンの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは後悔ではなく、この美しい世界への、あまりに遅すぎた愛着の証だった。

終焉

機体が消え、乗客たちが消え、アジアの街並みが、海が、地球という惑星そのものが、宇宙の暗闇の中で静かに、そして完全に光の泡となって消滅していく。

そこには、もう誰も泣く者はいない。憎しみ合う者も、傷つけ合う者もいない。ただ、完璧な救済としての、美しい静寂だけが広がっていた。

遠い未来、別の銀河系の知的生命体がこの宙域を調査したとき、彼らは星々の塵の中に、奇妙な残留思念を感知するだろう。

かつてここに、愚かで、不完全で、けれど確かに輝いていた命の灯火があったことを。

そして、一人の男が最後に流した涙の熱量だけが、誰もいない宇宙の片隅で、星のように小さく煌めき続けていた。