南国猫目十五犬伝 第二話「ノルウェーの逆さ海岸」(後編)
南国猫目十五犬伝
第二話「ノルウェーの逆さ海岸」(後編)
午前三時五十分。
港は完全に静まっていた。
老人はいつの間にか家に戻っていた。レイとチは岸壁の端に立っている。チュウの気配は相変わらず、どこにあるかわからない。でも確実にいる。レイはそれを皮膚で知っていた。
海は凪いでいた。
鏡のように平らで、月を映している。フィヨルドの両岸の崖が、暗い壁として立っている。風がない。波がない。水音がない。
静かすぎた。
チが低く言った。「始まる」
レイは海面を見た。
変化は音からではなかった。光からだった。
水深二百メートルの、さらに下。海底の、そのまた下から、青白い光が滲み始めた。光というより、光の形をした何かだった。輪郭が揺れている。固定されていない。まるで水の中で溶けかけた紙のように、形が定まらないまま上昇してくる。
チの眼鏡の奥の目が、細くなった。「来る」
午前四時、きっかりに。
それが海面を破った。
音はなかった。波紋だけがあった。静かな同心円が広がり、岸壁に当たり、消えた。そして海面に、それが浮かんだ。
影だった。
人間の影だ。でも人間がいない。地面もない。光源もない。それでも影は確かにそこにあった。人の形をした、薄い暗さが、海面の上に横たわっている。一つではなかった。次々と浮かんでくる。二つ、五つ、十。それ以上。全て人間の形をしている。男のもの、女のもの、子供のもの。
レイは息を止めた。
人間の形をして、でも人間のいない影たちが、海面に並んでいた。
整列していた。
それが最も異常だった。ばらばらに浮かんでいるのではない。全て同じ方向を向いて、等間隔に、静かに浮かんでいる。まるで命令を待っているように。
チが数えた。「三十一。バンコクで消えた十一、加えて未報告の二十」
「未報告」とレイは言った。
「まだ気づいていない人間たちの影だ。本人は今頃ぐっすり眠っている。明朝、自分の影がないことに気づく」
レイは海面の影を見た。
影には顔がなかった。でも向きがあった。全員が同じ方向を向いている。レイは方位を確認した。
北西。
フィヨルドの奥、山の向こう。あるいはもっと遠く。
その時、チュウが初めて姿を現した。
岸壁の上、レイとチの後ろに、大きな体が立っていた。人間の形をしている。がっしりした中年男性。でも目が、犬のままだった。深く落ち着いた、金色の目。チュウはその目で海面を見て、低い声で言った。
「動く」
影が、動き始めた。
整列したまま、北西へ向かって、海面を滑っていく。流れているのではない。**進んでいる。**意志を持って進んでいる。速度は一定で、波を立てず、音を立てず。月明かりの中で、三十一の影が隊列を組んで移動していく。
三分間だった。
午前四時三分に、最後の影がフィヨルドの奥に消えた。
海面はまた、鏡に戻った。
チはすでにタイへメッセージを送っていた。
ミッドナイトからの返信は、一行だった。
方向を追いなさい。
レイは北西の空を見た。フィヨルドの奥。山脈の向こう。ヨーロッパ大陸。その先。
影は集められている。
バンコクで消えた影が、ノルウェーの海底を経由して、北西へ向かっている。これは現象ではない。**輸送だ。**誰かが、世界中の人間の影を、どこかへ運んでいる。
チが静かに言った。「ソムチャイのデータに、北西方向のパターンがあるか確認する」
「頼む」とレイは言った。
チュウは黙ったまま、三人の周囲を一周した。見えない何かを確認するように。それから言った。
「俺たちは、見られていた」
レイとチが振り返った。
「さっきから。影が上がってくる前から。海の底の何かが、こちらを観測していた」
風がなかった。
でもレイの首の後ろが、冷たくなった。
観測していた。
ミッドナイトの左目のルビーは、最良の未来を観測する目だ。ソムチャイは気象データの隙間で、未来の異常を観測している。そして今、海の底の何かが、こちらを観測していた。
この世界には、観測する存在が複数いる。
そのうちの一つが、今夜、こちらに気づいた。
夜明けにタイへ戻った三匹は、縁側のミッドナイトに報告した。
ミッドナイトは最後まで黙って聞いた。
全て聞き終えてから、ルビーの左目を細めて言った。
「影を集めている者がいる。ソムチャイに聞きなさい。彼のデータの中に、北西の終点があるはずよ」
朝のコーンケーンに、鳥の声が響いていた。
十五匹の犬たちが、庭で起き始めていた。その足元に、それぞれの影が、朝日の中でくっきりと伸びていた。
ミッドナイトは自分の足元を見た。
黒猫の影が、縁側の木の上に落ちている。
それを確認してから、また空を見た。
(第二話・完 了) 次回――第三話「ソムチャイの地図」へ続く
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