南国猫目十五犬伝 第二話「ノルウェーの逆さ海岸」(前編)

南国猫目十五犬伝

第二話「ノルウェーの逆さ海岸」(前編)


 ソムチャイからの最初のメッセージが届いたのは、翌朝九時だった。

 ミッドナイトはスマートフォンを縁側で受け取った。十五匹の犬たちはまだ眠っている時間だ。コーンケーンの朝は静かで、遠くで鳥が鳴いていた。

ノルウェー・フィヨルド沿岸。
座標を送る。
明日の午前四時(現地時間)。
パターンの強度は第一波の三倍。
――ソムチャイ

 三倍。

 ミッドナイトは数字を右目で読み、左目で意味を測った。バンコクの影消失は十一名だった。三倍の強度なら、影響範囲は個人ではなく地域になる可能性がある。漁村。海岸線。生態系への干渉。

 彼は三匹の名前を、すでに決めていた。


 夕方、ミッドナイトは三匹を縁側に呼んだ。

 レイ、チ、チュウ。

 三匹は並んで座った。犬の形のまま。ミッドナイトは彼らを見下ろし、簡潔に言った。

「ノルウェー。フィヨルドの漁村。明日の午前四時までに現場を押さえなさい。魚が逆さまに打ち上げられる。眼球だけが溶けている。地元の漁師が『海の下から歌が聞こえた』と言っている」

 チュウが低く唸った。大型犬だ。ロットワイラーに似た体格で、その唸りは確認の意味を持つ。*全員を守る準備ができている、*という信号だ。

「チ」とミッドナイトは続けた。「ソムチャイのデータと現場の物理的状況を照合しなさい。パターンの強度が三倍になった理由を探すこと」

「レイ」

 レイは小さな犬だ。柴犬より細く、耳が大きい。その耳が、ミッドナイトの声に向かって動いた。

「漁村に溶け込みなさい。漁師の言葉を引き出すこと。『歌』が何だったか。誰が最初に聞いたか。現地の言語で話しなさい」

 レイは静かにうなずいた。この犬はノルウェー語を話す。フィンランド語も、サーミ語も。言語は彼女にとって水のようなものだ。どんな器にも形を変えて入っていく。

「行きなさい」

 三匹の輪郭が、夕暮れの空気の中でほどけ始めた。


 ノルウェーの夜は、タイとは別の暗さを持っていた。

 レイは漁村の港に立っていた。人間の形をしている。三十代の女性研究者。フィールドジャケットにバックパック。北欧の研究機関の職員証を、必要なら出せる準備がある。潮の匂いが強く、気温は六度だった。

 港の端に、老人が一人いた。

 網を繕っている。午前一時だというのに。

 レイはノルウェー語で話しかけた。「眠れないんですか」

 老人は顔を上げなかった。「あんたも聞こえたのか」

「何が聞こえましたか」

 老人の手が止まった。「海の底から、女の声だ。歌ではない。正確には。もっと規則的だ。繰り返す。でも言葉じゃない」

 レイの耳が、人間の形の中で、わずかに動いた。

「いつから」

「五日前から。毎晩同じ時刻に。午前四時きっかりに始まって、四時三分に止まる。三分間だけ」

 レイは時刻を記憶した。ソムチャイのデータが示した時刻と、三分のずれがある。誤差ではない。意図的な三分間だ。

 その時、チが隣に現れた。

 いつの間にいたのか、レイにもわからなかった。チは静かにそういう存在だ。気づいたらそこにいる。眼鏡の大学院生の顔で、レイの耳元に小さく言った。

「海底のデータを拾った。ソムチャイのパターンと一致する波形が、この座標の真下、水深二百メートルから出ている」

「発信源は」

「機械ではない」とチは言った。そこで一瞬、止まった。「生体反応に近い。でも既知の生物ではない」

 レイは老人を見た。老人はまだ網を繕っている。

「漁師たちは魚のことを知っていますか」とレイは老人に聞いた。

 老人はようやく顔を上げた。月明かりの中で、その目が濡れているように見えた。

「知っている。毎朝、岸に並んでいる。逆さまに。目が溶けている。でも腐っていない。触ると、まだ温かい」

 温かい。

 レイとチは、視線を交わした。

 死んでいるが温かい魚。逆さまに整列している。眼球だけが溶けている。水深二百メートルから、既知でない生体反応が、三分間だけ信号を送っている。

 そしてソムチャイのデータは、これをすでに五日前から知っていた。

 港の暗闇の中で、チュウは姿を見せていなかった。でもレイにはわかった。チュウはいる。三匹全員を、見えないところから見ている。それがチュウの仕事だ。

 午前四時まで、あと二時間だった。


(第二話・前編 了) 明日へ続く――