南国猫目十五犬伝 第一話「バンコクの消えた影」(前編)
南国猫目十五犬伝
第一話「バンコクの消えた影」(前編)
タイ東北部、コーンケーン県の外れに、一軒の古い平屋がある。
トタン屋根に雨が当たると、盆地全体に音が広がる。庭には痩せたバナナの木が三本。隣には何も作っていない畑。道は舗装されておらず、雨季になるとバイクも沈む。郵便番号すら怪しい、そういう場所だ。
午前二時。
縁側に一匹の黒猫が座っていた。
体長は普通の猫より少し大きい。毛並みは闇に溶け、輪郭だけが月明かりに浮かぶ。右目はサファイアの色をしていた。冷たく澄んで、今この瞬間の世界をそのまま映している。左目はルビー――深い赤で、別の何かを、まだ来ていない何かを、ずっと探し続けているような色だ。
猫の名はミッドナイト。
彼はスマートフォンを眺めていた。人間の言葉で言えば「眺めていた」が正確だが、実際には画面の情報を毎秒数千単位で処理していた。タイ語、英語、日本語、アラビア語、スワヒリ語。世界中のニュースフィードと監視カメラの断片と、百七十二種類のSNSの投稿を、右目で読み、左目で意味を測っていた。
庭の奥の犬小屋から、寝息が十五種類、聞こえてくる。
それぞれ微妙に違う。低く規則的なもの、浅く速いもの、いびきに近いもの。ミッドナイトは耳だけでそれを分類し、全員が今夜はまだ起こさなくていいと判断した。
バンコクのニュースが、画面に流れた。
【速報・タイ語】バンコク都心部・シーロム地区で複数の「影消失」報告。計11名が影のない状態で発見される。当局は電磁波異常の可能性を否定せず。健康被害なし。
ミッドナイトは三秒間、動かなかった。
それから尻尾を一度だけ、ゆっくりと動かした。
影が消える、という現象を、彼はこれまでに一度も観測したことがなかった。記録にもない。影は光と物体があれば必ず生じる。物理の基本だ。それが消えるとするなら、光が変質したか、物体が変質したか、あるいは――空間そのものが、ある波長の現実だけを選んで消去し始めているか。
左目のルビーが、かすかに明るくなった。
可能性を観測している。まだ何も確定していない。
彼は縁側から立ち上がり、静かに家の中へ戻った。廊下は古い木製で、ふつうの猫なら音を立てる。ミッドナイトは音を立てなかった。突き当たりの部屋、引き戸を鼻先で開ける。
十五匹が眠っていた。
大型犬から中型犬まで、犬種は様々だ。土間に毛布を敷いて、思い思いの姿勢で眠っている。その中の一匹、一番奥の壁際でまるまっている柴犬に、ミッドナイトは静かに近づいた。
鼻先で、その耳に触れた。
柴犬は目を開けた。
茶色い瞳が、一瞬で焦点を合わせる。眠気がない。この犬は眠りが浅い。いつでも起きられるように訓練されている、ではなく、生まれつきそういう構造をしている。
「チ」とミッドナイトは言った。声は低く、他の十四匹を起こさない音量だった。「バンコク。シーロム。二時間前から。十一名。影だ」
チ(智)と呼ばれた柴犬は、三秒間、天井を見た。
データを処理している。ミッドナイトが言った情報だけで、すでにいくつかの仮説を組み立て始めている。この犬の得意なことは解析だ。与えられた断片から構造を見抜く。
「一人で?」
「今夜はそうだ。状況が摑めない。まず見てきなさい」
チは立ち上がった。体を一度伸ばし、それからゆっくりと、その輪郭が揺れ始めた。
犬の形が、ほどけていく。
骨格が変わる音も、皮膚が引き伸ばされる音もしない。ただ静かに、柴犬だったものが、別の形になっていく。三十秒後、そこに立っていたのは二十代後半の男だった。短い黒髪、薄い眼鏡、くたびれた綿のシャツ。バンコクの大学院生に見える。どこにでもいる顔だ。それが重要だった。
「何を探す?」とチは尋ねた。今は人間の声だった。
「影が消えた順序。最初の一人を見つけなさい。最初の一人だけが、まだ意味を持っている」
チはうなずいた。
そして、消えた。
テレポートに音はない。空気が動く気配だけが、一瞬残る。
ミッドナイトはその場に残り、チが消えた空間を右目で見た。何もない。床と毛布と、他の十四匹の寝息だけがある。
左目が、またかすかに光った。
この事件は、影だけでは終わらない、とミッドナイトは思った。最初の報告から二時間が経過している。もし何かが連鎖しているなら、夜明けまでに次の報告が来る。
縁側に戻り、再びスマートフォンを開く。
タイの空に、星が多かった。
バンコクの空には、もう星が見えない時代になって久しい。光が多すぎて、暗いものは消える。
ミッドナイトはその事実を、今夜初めて、少し気にした。
(第一話・前編 了) 明日へ続く――
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