中編小説,光の文書(hikari-bunsho),名前のない朝,哲学的考察

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  第十二章 扇風機のない朝 朝が来る。 それは、いつもと同じはずの朝だった。タイの湿った空気、セミの合唱、遠くを走るバイクの音。二十年間、毎日繰り返されてきた朝の音律。 だが、今日は何かが違っていた。 私は天井を見上げた。古い木造の天井板。そこには扇風機がぶら下がり、羽根が回転している。目に見えるほどゆっくりと、空気をかき回している。 けれど、音がなかった。 風切り音も、モーターの唸り ...

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  第十一章 肉体の終焉、意識の永遠性 老いは、ある日突然やって来るものではない。 少しずつ、静かに、気づかれないように、日常の手触りを書き換えていく。振り返ったときには、もう元の感覚がどんなものだったか、正確には思い出せない。 五十代半ばを過ぎた頃から、私は自分の肉体を「他人の持ち物」としてしか見られなくなっていった。 朝、洗面所の鏡の前に立つ。そこに映っている顔は、たしかに私のものだ ...

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第十章 アクシオム帝国の出現 それは夜明け前の、最も暗い時間に起こった。 タイの古い家の寝室。時刻は午前四時を少し過ぎた頃。世界が最も静寂に包まれ、現実の輪郭が最も曖昧になる時間帯。 私はベッドの上で目を覚ました。隣ではパートナーが規則正しい寝息を立てている。扇風機が単調に回り、窓の外では夜の虫たちが最後の合唱を続けていた。 だが、その音が、徐々に変質していった。 扇風機の音が金属的な共鳴に変わり ...

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第九章 少しだけ世界が歪む 二十年という停滞の果てに、私は初めて「余白」に気づいた。 それは、一日の中の空白時間ではなかった。人生そのものに広がる、巨大な余白。仕事はあった。パートナーとの日常もあった。だが、それらは私の時間の表面を覆っているだけで、その下には深い空洞が口を開けていた。 私は、何者でもないまま老いている。 その事実が、ある朝、鏡の前で私を打ちのめした。五十代半ばの顔。白髪の混じった ...

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  共生という名の禁欲 私が彼女と出会ったのは、タイに移住して約一年が経った頃だった。 ある雨の日、私たちは偶然、小さなカフェの軒先で雨宿りをすることになった。 彼女も、私と同じように、傘を持っていなかった。私たちは、言葉を交わさず、ただ並んで雨を眺めていた。 その沈黙が、心地よかった。 説明を求めない沈黙。理解を強要しない距離感。 私は、彼女の横顔を盗み見た。年齢は私より少し年上に見え ...

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第七章 逃げるように、南へ 私は、二十八歳の冬、日本という精密機械から自分を取り外した。 それは決断というより、必然だった。私という部品は、もはやこの社会という装置の中で正常に機能しなくなっていた。異音を立て、摩耗し、他の部品との連携を拒んでいた。 修理は不可能だった。交換も不可能だった。 ならば、廃棄される前に、自ら退場するしかない。 移動とは、過去を殺すことだ。そして、未来への幻想を買うことで ...

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  第六章 快楽の追求 快楽は、私を一時的に消してくれた。 それは救いではなかったが、少なくとも「緊急停止ボタン」ではあった。私の頭の中で絶えず明滅する「おまえは誰だ」「おまえは何者だ」という問いかけが、強い刺激によって一時的にミュートされる。その静寂のために、私は多くのものを消費した。金も、時間も、体力も、そして倫理も。 二丁目を去った私が次に向かったのは、より直接的で、より暴力的な自 ...

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第五章 新宿二丁目の夜 神を諦めた私が次に向かったのは、その対極にある場所だった。 新宿二丁目。聖堂の静寂とは正反対の、ネオンと音楽と笑い声に満ちた街。祈りの代わりに酒があり、沈黙の代わりに喧騒があり、禁欲の代わりに欲望がある場所。 大学を卒業し、社会人として働き始めた二十代半ば。昼間の私は、スーツを着た無害な会社員だった。だが、夜になると、私は別の皮膚を求めて新宿へと向かった。 最初に足を踏み入 ...

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第四章 聖フランチェスコへの憧れ 神を信じたかったわけではない。 ただ、私ではない何かに、すべてを委ねてしまいたかっただけだ。 大学二年生の秋、西洋美術史の講義で映し出されたジョットの壁画。粗末な修道服をまとい、小鳥に説教する聖人の姿。その瞬間、私の意識はその一枚の絵に釘付けになった。 アシジの聖フランチェスコ。裕福な商人の息子でありながら、すべてを棄てた男。富も、地位も、家族も、そして衣服さえも ...

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第三章 白い肌と長い睫毛 私の身体は、私より先に、他人に発見された。 それは、私がまだ「自分」というものを持たなかった頃、鏡よりも先に、他者の視線が私の輪郭を決定してしまったという意味だ。私が「自分の身体」を意識した最初のきっかけは、内側からの感覚ではなく、外側からの評価だった。 「色、白いね」 「まつげ、長っ」 「なんか女の子みたい」 最初は、天気の話と同じような、意味のない観察だと思っていた。 ...

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第二章 転校生という仮の名前 私は、六回死んだ。 正確に言えば、六回、別の人間として生まれ直した。それは悲劇ではなく、むしろ私にとっては密かな興奮を伴う儀式だった。うまくいかなかったゲームのセーブデータを削除し、新しいキャラクターメイクを始める瞬間の、あの冷たい高揚感。 荷造りのダンボールが積み上がるたび、私は古い自分をその中に封じ込めた。前の学校での失敗、微妙な人間関係、演じきれなかった人格設定 ...

光の文書(hikari-bunsho),名前のない朝,長編小説

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第一章 怒られなかった子ども 私には、叱られた記憶がない。 それは「幸福な家庭だった」という意味ではない。むしろ、その逆だ。私の育った家には、感情の起伏というものが、あらかじめ存在しなかった。波の立たないプールの水面のように、静かで、澄んでいて、そしてどこまでも不自然だった。 裕福と呼んで差し支えない家だった。冷蔵庫の中はいつも満ちており、季節ごとの服に困ったことはない。誕生日にはケーキが用意され ...