【サムライ女子はつらいよバンコク】 Z世代女子大生の異世界逆転生物語 第一章:侵食

 

 バンコクの喧騒が、本能寺瑠奈の耳を刺激した。

 

 アスファルトから立ち上る熱気が、サンダルの底を通して足の裏を焦がす。スクンビットの路上、午後三時の太陽は罰のように垂直だ。

 

「はぁ……もう三ヶ月か」

 

 深いため息が、排気ガスと混ざって消えた。

 

 タイ語を学ぶために来た。軽い気持ちで選んだ留学先だった。「とりあえず海外に出てみよう」——十九歳の春に似合いの動機だと思っていた。でも現実は、タイ語の声調が頭に入らず、猛暑が体力を削り、何より食事が、胃に重かった。

 

 路上の屋台に、目が止まる。

 

 大きなすり鉢。山積みのパパイヤ。木の棒でグイグイと叩き潰す、年配の女性の腕。

 

 *本場を食べなきゃ意味がない。*

 

 そう言い聞かせて近づいた。屋台のおばちゃんが顔を上げ、にこやかに手招きする。

 

「ソムタム食べる?美味しいよ!」

 

 頷いた。見ていると、ニンニク、唐辛子、ライム、ナンプラーが次々と加わっていく。完成した皿を受け取った時、すでに酸っぱい匂いが鼻を刺していた。

 

「いただきます……」

 

 一口。

 

 口の中で、何かが爆発した。

 

「う——っ、まずっ!」

 

 声が出た。出てしまった。

 

 おばちゃんの手が止まった。

 

 にこやかだった表情が、一枚剥がれた。

 

「……何だって?」

 

 謝ろうとした。取り繕おうとした。でも言葉が、三ヶ月分のタイ語では足りなかった。おばちゃんの声が大きくなるにつれ、周囲の人間が振り返る。視線が集まる。

 

 木の棒が、振り上げられた。

 

 目を閉じた。

 

 鈍い衝撃。

 

 意識が、白くなった。

 

 白の中で、一枚の映像が浮かんだ。

 

 揺れる帆。夜の海。

 

 *波の匂いがする。塩と、魚と、もっと生臭い何か——血か。*

 

 甲板に、男たちが並んでいる。灼けた肌。手に、刀。

 

 その中の一人が、振り返った。

 

 「——行くぞ」

 

 声が、骨の芯まで響いた。

 

 

 消毒液の匂いで、意識が戻った。

 

 白い天井。硬いベッド。窓の外から、バンコクの車のクラクションが聞こえる。

 

「よかった。意識が戻りましたね」

 

 看護師が覗き込んでいた。にこやかな顔。ネームタグ。

 

「ここは……?」

 

「バムルンラード国際病院です。屋台で——まあ、喧嘩になったそうで。大きな怪我はありませんでした」

 

 瑠奈はゆっくりと周囲を確認した。腕に点滴。頭に包帯。頭痛が鈍く続いている。

 

「救急車の中で、『俺は山田長政だ』と叫んでいたそうですよ」

 

 看護師が苦笑した。「打撲の影響でしょう」

 

 山田長政。

 

 その名前を聞いた瞬間、何かが——頭の右側の、どこか奥の方が——

 

 *反応した。*

 

 打撲の影響だ。そう思った。思おうとした。

 

【一段階目:異常】

 最初は、小さな漏れだった。

 

 水が欲しくて口を開いた瞬間、出てきたのは——

 

「水を持ってこい」

 

 命令形。男の命令形。

 

 瑠奈は自分の口元を手で押さえた。「お水をいただけますか」と言おうとしたのに。なぜ。

 

 看護師が戻ってきたとき、瑠奈は何気なく顔を見た。そして気づく前に、口が動いていた。

 

「……ナーイ・カンチャナーパット」

 

 看護師の足が止まった。

 

「え? そうですけど……どうして」

 

 瑠奈は答えられなかった。

 

 その名前は、どこにもなかった。名札にも、記録にも。でも、知っていた。骨の中に刻まれているように。アユタヤ王朝の高官の家系。三男。馬の扱いが巧く、酒が弱い。縁側で笑うと、左の目尻に深い皺が入る。

 

 *なぜ知っている。*

 

「なんとなく……」と誤魔化した。

 

 看護師が出て行ってから、瑠奈は自分の手を見た。微かに、震えていた。

 

 

 夕方、病棟に人が少なくなった頃。

 

 窓の外をぼんやり見ていると、突然——視界が二重になった。

 

 バンコクの高層ビルの向こうに、川が見えた。本物ではない。でも、そこにある。水面が篝火を映している。揺れる光。煙の匂い。

 

*——いや、匂いが、した。*

 

 本当に、した。消毒液の向こうに、煙と泥と、鉄の、匂いが。

 

 瑠奈は目を閉じ、頭を振った。

 

 開けると、バンコクに戻っていた。

 

 *打撲だ。幻覚だ。そういうこともある。*

 

 でも手が、さっきよりも強く、震えていた。

 

 

【二段階目:恐怖】

 深夜、病棟が静まり返った。

 

 瑠奈は目を閉じた。眠ろうとした。

 

 その瞬間——*落ちた。*

 

 意識が自分の体から剥がれるような感覚。溺れているのではない。*押し出されている。*自分の頭の中で、場所を奪われている。

 

 フラッシュバックが来た。今度は遠くなかった。

 

 

*夜の川。舟が、敵陣の手前で止まる。*

 

*篝火の煙が、喉の奥まで入ってくる。血と泥が混ざった、もっと根源的な何か。*

 

*隣の男が低く言う。「長政殿、合図を」*

 

*手が動いた。刀の柄を握る。指が、自然にそこへ収まる。生まれた時から知っていたように。*

 

*甲板を蹴る足の感触。飛んだ。闇の中へ。*

 

*「——行くぞ」*

 

*自分の声。でも自分ではない。*

 

 

 瑠奈は跳ね起きた。

 

 シーツを握りしめた右手が——刀の柄を掴む、その形をしていた。

 

 「——っ」

 

 声にならない叫びを、喉の奥で殺す。息が荒い。心拍が痛い。

 

 でも、それより怖いのは。

 

 *今、一瞬、自分が誰だか、分からなかった。*

 

 本能寺瑠奈。本能寺瑠奈。十九歳。愛知県出身。母親の作る味噌汁の味を知っている。スマートフォンのパスコードは誕生日ではなく推しのデビュー日だ。通学路のコンビニの店員さんの顔を知っている。去年の夏、花火大会で浴衣の帯を自分で結べなかった。

 

 必死に列挙する。自分を縫い止めるように。

 

 でも、その向こうから、別の記憶が*押してくる。*

 

 勝った戦の数。死んだ部下の名前。アユタヤの王宮の廊下の、石畳の冷たさ。傷口に塗った薬草の、青臭い香り。敵の首が落ちる瞬間の、ぐん、という重さ。

 

*どっちが本物だ。*

 

「やめろ」

 

 声に出した。自分に言ったのか、頭の中の誰かに言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 返事は、なかった。

 

 でも何かが——頭の奥の暗い場所で——*息をしていた。*

 

 

 夜が明けるまで、瑠奈は眠れなかった。

 

 目を閉じるたびに、川が見えた。炎が見えた。誰かの顔が、断片として浮かんでは消えた。

 

 それは全員、自分の部下だった、と、瑠奈は知っていた。知りたくもないのに、知っていた。

 

 

【三段階目:仮受容——しかし不安定な】

 朝の診察。

 

 医師が質問する。頭痛は? 吐き気は? 視界に異常は?

 

 瑠奈は正確に答えた。頭痛はあります。吐き気はありません。視界は、まあ、正常です——と言いかけて、止まった。正常ではないが、説明する言葉がなかった。

 

「経過は良好です。三日後には退院できますよ」

 

 医師が立ち上がり、出口に向かいながら、深々と頭を下げた。

 

「お大事に」

 

 瑠奈の口が、動いた。

 

「——大義であった」

 

 医師が振り返る。

 

「え?」

 

「あ、」瑠奈は笑う。笑顔を作る筋肉が、一瞬だけ正しく動かなかった。「な、なんでもないです。お礼を言おうとして、ちょっと頭がまだ——」

 

 医師は苦笑して出て行った。

 

 ドアが閉まる。

 

 瑠奈は両手を見た。自分の手だ。細い指、剥げかけたネイル、手首の細さ。十九歳の、女性の手。

 

 *でも一瞬、この手で誰かの首を——*

 

「……共存する」

 

 声に出した。受け入れたわけではない。認めたわけでもない。ただ今この瞬間、それ以外に選択肢がなかった。

 

「山田長政」

 

 名前を呼んだ。初めて、意識的に。

 

「あんたが何者か知らないけど。私の体を乗っ取るのは、許さない」

 

 答えはなかった。

 

 でも頭の奥で、何かが*ゆっくりと微笑んだ気がした。*

 

 瑠奈は窓の外を見た。バンコクの朝。ソンテウが走り、屋台の煙が上がり、托鉢の僧が列をなしている。

 

 美しい街だと思った。

 

 ——と同時に、脳裏に地図が広がった。川の流れ、城壁の位置、市場の場所。四百年前の地形が、現代の風景の上に重なる。

 

「……やめろって言ってんだけど」

 

 瑠奈は小さく舌打ちした。

 

 それでも、足元は少し、落ち着いていた。

 

 嵐の中の、仮の停戦。

 

 

【ラストシーン:すでに変わってしまっている】

 退院の朝。

 

 スニーカーの紐を結んで、立ち上がった。廊下を歩くと、担当のスタッフが全員、出口まで見送りに来ていた。

 

 ナーイが、にこやかに手を振っている。

 

「また来ないでくださいね。元気で」

 

 瑠奈は微笑んだ。「ありがとう」と言おうとした。

 

 言えなかった。

 

 なぜなら、体が動いていたからだ。

 

 *膝が折れた。*

 

 *右手が胸元に来た。*

 

 *頭が、深く下がった。*

 

 武士が主君に対して行う、完璧な礼の形で——本能寺瑠奈は、タイ人看護師の前に、跪いていた。

 

 「——っ!」

 

 立ち上がる。顔が熱い。周囲のスタッフが困惑した顔で互いを見合わせている。

 

「す、すみません! 日本の礼儀で、ちょっと……」

 

 言い訳が、自分でも意味をなさないと分かっている。

 

 早足で病院を出た。自動ドアが閉まる。

 

 背後から、声が聞こえた。

 

「……あの人、なんか変じゃなかった?」

 

 瑠奈は足を止めなかった。止まったら、泣くと思ったから。

 

 バンコクの朝の光の中を、一人歩きながら、瑠奈は自分の右手を見た。

 

 さっき、跪いた手。震えていた。

 

 でも——

 

 *正しいと、感じていた。*

 

 その礼の形を。その深さを。その意味を。身に刻まれたもののように、正しいと。

 

「……やばい」

 

 本能寺瑠奈は、小さく呟いた。

 

 その声は、少し低かった。

 

*(第一章 了)*