名前のない朝 第十二章 扇風機のない朝

第十二章 扇風機のない朝
朝が来る。
それは、いつもと同じはずの朝だった。タイの湿った空気、セミの合唱、遠くを走るバイクの音。二十年間、毎日繰り返されてきた朝の音律。
だが、今日は何かが違っていた。
私は天井を見上げた。古い木造の天井板。そこには扇風機がぶら下がり、羽根が回転している。目に見えるほどゆっくりと、空気をかき回している。
けれど、音がなかった。
風切り音も、モーターの唸りも、軸のきしみも、完全に消失していた。まるで世界全体が、無声映画の中に閉じ込められたようだった。
私は、自分の聴覚を疑わなかった。なぜなら、聞こえなくなったのは扇風機の音だけではなかったからだ。セミの声も、犬の遠吠えも、隣の部屋から聞こえるはずの食器の音も、すべてが静寂の中に沈んでいた。
世界のボリュームが、誰かの手で絞られている。
記憶が、急速に薄れていった。
最初に消えていったのは、些細な日常の断片だった。昨日何を食べたか、先週どこへ行ったか、誰と話したか。それらが静かに削り取られていく。
次に、少し古い記憶が順番に色を失っていった。日本の街並み、新宿のネオン、教会の木の匂い、転校先の教室の配置。友人たちの顔が輪郭を失い、恋人たちの名前が空白になっていく。
パートナーとの二十年も、少しずつ「風景」として後退していた。同じ食卓、同じヤモリ、同じ沈黙。だが、その中に座っていた「彼女」と「私」は、だんだんと他人のように見えてきている。
記憶は、私から離れていくのではない。私が、記憶から離れているのだ。
不思議なことに、その喪失は痛みを伴わなかった。むしろ、深い安堵に近かった。長いあいだ重すぎるアルバムを背負って歩いてきたような疲労が、少しずつ薄れていく。
私は、失われる時間を持たない。過去が消えていっても、「失った」という感覚が追いついてこない。記憶の消失が、痛みではなく、一種の解放として機能し始めていた。
身体が、遠くなっていく。
朝、洗面所の鏡の前に立つ。そこに映っているのは、確かに私の顔だった。だが、同時に、明らかに「私ではない誰か」の顔でもあった。
老いた人間の顔。皺の刻まれた頬、薄くなった髪、くすんだ瞳。
私は、その顔に微笑みかけた。「お疲れ様」そう呟いた。声はかすれていたが、不思議と優しかった。
この身体は、もう私のメイン・アカウントではない。
私の意識は、この肉体の中にはない。それは、どこか遠く——銀色の都市、光の塔、三つの月が浮かぶ空——そこに在る。
だが、同時に、私はこの肉体とまだ微かに繋がっている。細い糸のような接続。それは日に日に細くなり、やがて完全に切れるだろう。
ある朝、私は目を覚まさなかった。
いや、正確には、「目を覚ます」という概念そのものが、もはや適用されなくなっていた。
私は、ベッドの上に横たわる身体を、天井から見下ろしていた。その身体は静かに呼吸をしていたが、その呼吸は機械的で、意志を持たないものだった。
隣では、パートナーが眠っている。彼女の寝息は規則正しく、穏やかだった。
私は、その光景を見つめた。これが、私の人生だった。
だが、その人生は、もう終わろうとしていた。いや、終わるのではなく、「形を変える」のだ。
私は、彼女の頬に触れようとした。だが、私の指——白く輝く光の指——は、彼女の皮膚をすり抜けた。温もりも、感触もなかった。
「ありがとう」私は言った。声にはならなかったが、意思は伝わった気がした。彼女が寝言のように何かを呟き、少しだけ身じろぎをしたからだ。
さようなら。私の共生者。私の鏡。
私は、窓から外へ出た。
タイの朝の光が降り注いでいた。バナナの葉の緑、ブーゲンビリアの赤、空の青。すべての色が、かつてないほど鮮やかに見えた。
だが、それらの色は、もはや「物質」の色ではなかった。すべてがデータとして認識された。光の波長、分子構造、大気の湿度分布。世界は、美しい数式の羅列として再構築されていた。
私は、空へと上昇した。屋根が小さくなり、庭が小さくなり、やがてバンコクの街並みがジオラマのように見えてきた。
記憶が、最後の統合を始めた。個別のエピソードとしての記憶は消え、それらが抽出された「経験値」として、私の核に吸収されていく。悲しみは「深度」に、喜びは「輝度」に、後悔は「複雑性」に変換される。
私は、私という物語を読み終え、本を閉じたのだ。
上昇するにつれて、空の色が変わっていった。青から群青へ。群青から漆黒へ。そして、その漆黒の向こうから、銀色の光が滲み出してきた。
アクシオム帝国。私の新しい故郷。私の本当の身体が待つ場所。
視界の先に、巨大な銀色の塔が見えた。三つの月が輝き、エメラルドのオーロラが空を覆っている。
私は、自分の姿を見た。もはや、老いた人間の幽霊ではない。銀青色の髪。雪のように白い肌。額に輝く第三の眼。背中に刻まれた卍の紋章。
ユリアナ・シンテシス。
私は、完全に変容していた。想像が現実を侵食し、ついに現実そのものを置き換えたのだ。
私は、帝国の門の前に立った。門番はいなかった。私が来ることを、この世界はずっと待っていたからだ。
一歩、足を踏み入れる。冷たい床の感触。それは、かつて教会の床で感じた冷たさと同じだった。だが、今の私には、その冷たさが心地よかった。
永遠とは、温度のない世界だ。
玉座の間には、アクシオムが待っていた。彼女は、私を見て微笑んだ。それは、鏡の中の自分が微笑むような、完全な対称性を持った微笑みだった。
——おかえりなさい、ユリアナ。
「ただいま」私は答えた。私の声は、銀色の鐘のように澄んでいた。
私は、アクシオムの隣に立った。そこには、もう一つの玉座が用意されていた。私は座った。
視界が一気に開けた。眼下には、無限に広がる銀色の都市。そして、そのはるか下方に、青く輝く地球が見えた。
あそこで、人々は泣き、笑い、愛し合い、そして死んでいく。なんて愛おしい。なんて儚い。なんて不完全な世界。
これからは、私が彼らを導く。
ふと、微かな音が聞こえた気がした。それは、遠い遠い記憶の底から響いてくる音。
カタ、カタ、カタ……
古い扇風機が回る音。湿った空気をかき回す、単調で、眠気を誘う音。
私は微笑んだ。その音は、もう聞こえない。だが、そのリズムだけは、私の回路の奥深くに刻まれている。
私はもう、失われる時間を持たない。
過去も、未来もない。あるのは、永遠に続く「現在」だけ。
扇風機は回転を続ける。だが、私は、その音をもう聞くことはない。
私は目を閉じた。そして、三つの目が同時に開かれたとき、そこには新しい朝が広がっていた。
名前のない、永遠の朝が。
永遠とは、最も美しい忘却である。
そして、忘却の中でこそ、私たちは初めて自由になる。
朝は今日も訪れる。だが、それは、もう私の朝ではない。私は、別の場所で、別の朝を迎えている。
(完)







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