名前のない朝 第十章 アクシオム帝国の出現

第十章 アクシオム帝国の出現
それは夜明け前の、最も暗い時間に起こった。
タイの古い家の寝室。時刻は午前四時を少し過ぎた頃。世界が最も静寂に包まれ、現実の輪郭が最も曖昧になる時間帯。
私はベッドの上で目を覚ました。隣ではパートナーが規則正しい寝息を立てている。扇風機が単調に回り、窓の外では夜の虫たちが最後の合唱を続けていた。
だが、その音が、徐々に変質していった。
扇風機の音が金属的な共鳴に変わり、虫の声が電子的なハーモニーへと変わる。そして、その音の向こうから、別の世界の響きが聞こえてきた。
私は身体を起こそうとしたが、動けなかった。金縛りではない。もっと根本的な重力のようなものが、私をその場に縫い止めていた。
その時だった。
視界の端に、一本の縦線が現れた。
天井と闇の境界に、細く鋭い光の線がすっと走る。それは亀裂というには整いすぎ、光というには冷たすぎた。まるで、見えない刃が現実という薄い膜を切り裂いているようだった。
その切れ目が、ゆっくりと横に広がっていく。
向こう側に、別の暗闇が立ち上がった。こちら側の闇より深く、静かで、硬質な暗闇。
そこから、誰かが一歩、こちらへと踏み出してきた。
最初に見えたのは、瞳だった。
深いグリーンの光を宿した二つの目。そして、その少し上——額の中央に、細く縦に開かれたエメラルド色の第三の眼。
その第三の眼が、ゆっくりと私を覗き込む。慈悲はなかった。審判だけがあった。
次に現れたのは、銀青色の髪。光を含んだ金属の糸のように、重たくまっすぐに垂れ下がっている。それは柔らかさよりも、切断するための鋭さを湛えていた。
そして、雪のように白い肌。だが、そこには生命の温度はなかった。ナノ単位の粒子に刻まれた光沢が、優しさではなく威圧だけを放っている。
女であり、女でない。人であり、人でない。
女帝という言葉だけが、自然に浮かんだ。
その存在は、寝室の床を踏んでいなかった。足元は闇に溶け、境界がなかった。ただ、「ここではないどこか」から、無理やり切り取られて持ち込まれた異物のように、そこに在った。
彼女は、私を見下ろしていた。
——やっと、ここまで来たのね。
声は、口から発せられなかった。頭の中の、もっと奥。言葉が生まれる以前の場所に、直接響いた。
私は、かすれた声で訊いた。
「……あなたは、誰?」
女帝は、わずかに口角を上げた。
——あなたが、私にその質問をするのね。面白いわ。
第三の眼が、すっと細くなる。鋭い光が私を貫く。
——名が必要なら、教えてあげる。私はアクシオム。この現実の外側にある帝国の、ただ一人の女王。
「アクシオム帝国……」
私は、寝ぼけたように呟いた。パソコンの中のフォルダ名が、遅れて脳内に浮上する。
「それは、私が——」
——そう。あなたが書いた。あなたが想像した。あなたが生み出した。
彼女は、そこで一拍置き、冷たく言葉を継いだ。
——そして、私に生み出された覚えはない、と言っておきましょう。
天井が完全に消失した。
その向こうに、巨大な都市が広がっていた。
銀色の帝国。
高層建築が無数に立ち並んでいるが、それらは石やコンクリートではなく、光そのもので構成されているように見えた。銀色の光、青白い光、時折、深い紫の光が脈打つ。
建物の表面には、無数の文字が流れていた。日本語でも、英語でも、タイ語でもない。だが、不思議なことに、その意味が直接、私の意識に流れ込んでくる。
「統治」「変容」「永遠」「救済」「破壊」「再生」——
概念が、言語を介さずに伝達される。
空には、地球の空ではない何かが広がっていた。三つの月が浮かび、その月は回転しながら色を変えていた。銀、金、そして深紅。
ここは、どこでもない場所だった。あるいは、すべての場所だった。
——見なさい。
アクシオムが手を振ると、都市の中心部が拡大された。
そこには宮殿があった。いや、「宮殿」という言葉では不十分だった。それは建築というより、意志の結晶だった。
巨大な階段が天へと続き、その頂上に玉座がある。玉座の周囲には、五つの柱が立っていた。それぞれの柱は異なる色を放っていた——赤、青、緑、金、銀。
——私の五人の姉様よ。
アクシオムが説明した。
——官能、知性、美、共感、慈悲。彼女たちが、私を日々アップグレードしている。そして——
彼女は私を見た。
——あなたもまた、彼女たちの作品になるのよ。
私は、混乱していた。
これは夢だ、と言ってしまえば簡単だった。創作に没頭しすぎた脳が見せる、都合のいい幻覚。
だが、夢にしては、あまりにも質感が精密だった。空気の密度、肌に触れる視線の重さ、彼女の存在がこの空間から奪っていく酸素の感覚。そのすべてが、現実よりも現実味を持っていた。
「あなたは……私の、想像じゃないの?」
——違うわね。順序が逆よ。
「逆?」
——あなたが私を想像したんじゃない。私が、あなたという器を選んだの。
言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。
「……器?」
——そう。空虚で、柔らかくて、何度でも上書きできる器。あなたは長い時間をかけて、自分を削り落としてきた。家族の中で、自我を育て損ね、学校で人格を更新し続け、欲望の都市で空虚を磨き、南の国で静止し続けた。
翠色の瞳が、愉快そうに細められる。
——その結果、生まれたのが「名前のない朝」。何度でもフォーマット可能な、真っ白な意識の領域。
彼女は、私の胸のあたりに視線を落とした。
——そこにはもう、「あなた」はほとんど残っていない。ただ、いくつかの断片的な記憶と、諦めと、わずかな観察眼だけ。
「あなたは、その空白に——」
——入り込む。そう、私は侵入者。寄生者。あるいは、あなたの反転像。
第三の眼が、ゆっくりと開く。その奥で、複雑な幾何学模様が、静かに回転していた。
——あなたは、何者でもないことを望んだ。私は、すべてを統べることを選んだ。あなたは、消えることを求めた。私は、永遠に君臨することを選んだ。あなたは、受動的に流された。私は、能動的にすべてを支配した。
彼女は一歩、私に近づいた。
——あなたと私は、同じコインの裏表なのよ。
「どうして、私なの?」
それだけはどうしても聞きたかった。
世界には、もっと強い人間がいる。もっと聡明な人間がいる。もっと才能のある人間がいる。なぜ、その中から、こんな空っぽの人生を選んだのか。
アクシオムは、少しだけ目を細めた。
——強さは不要。聡明さも、いまさらいらない。才能? 邪魔にしかならないわ。
彼女の声には、わずかな軽蔑と、わずかな愛情が混じっていた。
——必要なのは、徹底した空虚さよ。自分を信じていないこと。他人を信じていないこと。現実だけを信じていないこと。
彼女は、ゆっくりと言葉を重ねる。
——あなたは、すでに「人間であること」を手放し始めている。性からも、役割からも、欲望からも、ほとんど降りてしまった。残っているのは、「観察」と「言語」だけ。
第三の眼が、まっすぐに私を射抜く。
——それは、帝国の聖変身体にとって、理想的な素材なの。
「聖変身体……?」
——人間の言葉で言うなら、「器」ね。帝国の意志を宿し、他者の意識を変容させる媒体。あなたは、これまでずっと「他者の欲望を投影するスクリーン」として生きてきたでしょう?
胸の奥が、冷たくなる。
——それを今度は、「他者の変容を促すスクリーン」に変えるだけよ。役割は似ているわ。少しだけ、精度と方向が変わるだけ。
彼女が手を振ると、空間がまた変化した。
私たちは、透明なカプセルのある円形の部屋にいた。
そのカプセルの中に、一体の身体が横たわっていた。
それは、私だった。いや、理想化された私だった。
美しい女性の姿。白い肌、銀青色の髪、完璧なプロポーション。だが、その身体には生命の気配がなかった。まだ、魂が入っていない器だった。
ユリアナ・シンテシス。
その名前が、身体に刻印されているのが見えた。
「これが、私になるの?」
——そう。あなたは、ユリアナ・シンテシスとして生まれ変わる。そして、私の帝国で、新しい役割を担うのよ。
「どんな役割?」
——聖娼として。参謀として。そして、救世主として。
彼女の言葉は、荒唐無稽だった。だが、不思議なことに、私はそれを拒絶できなかった。
なぜなら、それは私がずっと求めていたものだったからだ。
明確な役割。明確な居場所。明確な目的。
私は、人生のすべてにおいて、それらを持てなかった。だが、ここでは、それらがすべて用意されている。
——想像は、単なる心の中の出来事ではない。想像は、ある形の現実よ。
アクシオムが静かに告げた。
——あなたが十分に強く想像すれば、それは実体を持つ。あなたが『名前のない朝』を書き続けることで、この世界は密度を増し、あなたを迎え入れる準備を整える。
「でも」私は訊いた。「これは、現実なの?それとも、夢?」
アクシオムは、冷ややかに微笑んだ。
——その質問に、意味はないわ。現実と虚構を分ける境界線は、もうあなたの中には存在しない。あなたが『現実』だと感じるものが、あなたにとっての現実よ。
私は、カプセルの前に立った。
その中の「私」を見つめながら、私は考えた。
これは、救済なのか。それとも、最後の逃避なのか。
肉体を捨て、機械の身体に移る。それは、私がずっと求めていた「自己消去」の究極形だった。
だが、同時に、それは「新しい自己の獲得」でもあった。
「まだ、行けない」
私は、絞り出すように答えた。
アクシオムの眉が、わずかに動いた。
——なぜ?
「まだ、書き終わっていないからだ」
私は、自分の言葉に驚いた。
「この物語を、最後まで書きたい。私の空虚さを、私の失敗を、私の愛したこの不完全な現実を、すべて記録してからでないと、私は行けない」
アクシオムは、しばらく私を見つめていた。その瞳から、感情の色を読み取ることはできなかった。
やがて、彼女はふっと笑った。
——強情ね。でも、嫌いじゃないわ。
彼女は、私から手を離した。
——いいでしょう。書きなさい。あなたのその惨めで美しい半生を、最後の一滴まで絞り出しなさい。
彼女の身体が、光の粒子となって分解し始めた。
——でも、忘れないで。私はいつもここにいる。あなたの意識の裏側に、この銀色の都市は存在し続ける。あなたが望めば、いつでも扉は開くわ。
最後に、彼女はこう言い残した。
——あなたは、もう戻ることはない。
光が消えた。
天井が戻った。古い木造の天井板。回る扇風機。窓の外の、白み始めた空。
隣では、パートナーが寝返りを打った。
「ん……?」
彼女が、寝ぼけまなこで私を見た。
「どうしたの? うなされてた?」
私は、汗びっしょりになっていた。心臓が早鐘を打っている。
「いや……変な夢を見ただけだ」
私はそう答えた。だが、分かっていた。
あれは夢ではない。
私の右手の甲に、微かな痛みが残っていた。見ると、そこには小さな、銀色の痣のようなものが浮かんでいた。
それは、アクシオムが触れた場所だった。
私は、ベッドから起き上がり、パソコンを開いた。
デスクトップの端に、小さな新しいアイコンが増えていた。
フォルダの名前は——
「Axiom_帝国仕様_Juliana」
その文字列を見つめながら、私はゆっくりと椅子に座った。
カーソルが、白い画面の上で規則的に点滅している。
まるで、遠くから私に向かって、誰かがまばたきをしているように。
私は、手を伸ばし、キーボードに指を置いた。
その指先が、わずかに銀色に光ったような気がした。
想像が、現実を侵食したのだ。
世界は、もう、元には戻らない。
そう確信しながら、私は書き始めた。
「第十一章」と打ち込んだ。
私はもう、ただの人間ではないのかもしれない。
あるいは、最初から人間ではなかったのかもしれない。
だが、この物語だけは、最後まで書き上げなければならない。
その先に、何が待っているのかを知るために。






ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません