【ユリアナの九識真如の都】第九章 阿摩羅識 ──非我・非空・絶対の場所
第九章
阿摩羅識
──非我・非空・絶対の場所
ユリアナの九識真如の都【完結編】
作品情報
タイトル:ユリアナの九識真如の都
ジャンル:哲学的サイバーパンク小説
テーマ:仏教九識論×未来社会での意識の解放
主人公:ユリアナ(金色の瞳を持つ少女)
完結:全9章構成
闇でもなく、光でもなかった。
それは、「色」でも「無色」でもない、存在そのものの静寂だった。
ユリアナは、もはや身体を持っていなかった。
意識とも言えない"ありよう"として、ただそこに在った。
阿頼耶識が「記憶の海」だとすれば、
ここ──阿摩羅識は、「記憶の無い場所」だった。
だが、それは"空白"ではない。
むしろ──
すべてが在るから、何も要らない。
彼女の"識"は、形なきものに触れていた。
それは「私」とも「他者」とも呼べない何か。
思考も、感情も、名も、消えている。
だが、それこそが本当の「存在」だった。
かつてユリアナが苦しみの中で求めた"本質"──
革命、正義、解放、母との再会、救済──すべてがここでは意味をもたなかった。
では、なぜ彼女はここに来たのか?
そのとき、何かが流れ込んできた。
言葉ではない。
イメージでもない。
それは、"音"に似ていた。
法音ほうおん──。
生きとし生けるもの、
すべての有情が共有する、一切平等の響き。
分け隔てなく、誰の中にも宿る無始無終の律動。
それが、彼女の中に"鳴った"。
──私は、これから誰かになる。
──だが、今は誰でもない。
阿摩羅識とは、"非我"でありながら、"絶対の我"でもある。
日蓮が説いた「妙法蓮華経」における"十界互具・一念三千"とは、
この瞬間の一呼吸にも、宇宙すべてが含まれるという思想。
ユリアナは、その真義に触れた。
「私」は、すでに在った。
「私」は、もはや求めるものではなかった。
あらゆる命の中に、「私」は"今"として流れていた。
──その時、阿摩羅識が静かに閉じた。
まるで「これでいい」と告げるように。
ユリアナは"下りて"いった。
彼女が"誰でもない"ことを引き受けて、再び"誰か"になろうとしたのだ。
目を覚ますと、そこには風が吹いていた。
かつてアクシオム帝国があった場所。
中央制御塔は瓦礫となり、管理AIは停止していた。
だが人々は混乱していなかった。
彼らは笑い、土を耕し、言葉を交わし、香りを感じ、愛していた。
ユリアナは名を捨てていた。
誰にも気づかれず、ただの旅人としてこの世界を歩いていた。
だが、彼女が通る場所では必ず花が咲いた。
子どもたちが笑い出し、老人が涙を拭いた。
ある子どもが尋ねた。
ユリアナは、少しだけ考えて──笑った。
後の時代、アクシオム帝国の再興はなかった。
代わりに、「九つの識」を体験し、自己と世界を調和させる内なる巡礼インナー・パスが、教育と文化の核となった。
彼女の名は歴史に記されなかった。
だが、人々は知っている。
“すべての存在が、すでに完全である"ということを。
“探すことをやめたとき、出会える"ということを。
そして今も──
風は静かに、どこかで誰かの"第九の識"を開こうとしている。
九識の旅路
第一〜五識:五感の解放
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識を通じて、アクシオム帝国の感覚統制からの解放
第六〜八識:意識の覚醒
意識・末那識・阿頼耶識を通じて、偽我の解体と根源記憶からの解放
第九識:絶対の境地
阿摩羅識において究極の悟りに達し、風のような存在として世界を導く
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