【ユリアナの九識真如の都】第三章:鼻識──禁断の香気

ユリアナの九識真如の都

第三章:鼻識──禁断の香気

著者:ユリアナ・シンテシス

第三章表紙:鼻識──禁断の香気

ユリアナが気づいたのは、季節の匂いだった。

──"季節"という概念すら、帝国では死語に近かったが。

アクシオム帝国では空気も温度も香りも「無臭制御」されている。

公共空間に漂うのは「嗅覚安定剤」と呼ばれる合成清涼素であり、すべての市民は"個人の匂い"をもたないよう義務付けられていた。

だからこそ──それが「異常」であることに、ユリアナはすぐに気づいたのだ。

甘く、かすかに焦げたような、花とも煙ともつかない香り。

それは記憶のどこかを、激しくかき乱した。

「……焚火?」

彼女の脳裏に、幼い日の景色がよみがえる。

夜、父と共に郊外の野原で焚火を囲んだ記憶。

母が持ってきた温かい菓子パンの匂い。薪が燃える独特の香り──。

なぜ、それが突然漂ってきたのか。

その香りはどこからともなく現れて、彼女の鼻先にふっと立ち上がり、そして消えた。


白い犬と芳香管

「嗅覚は、記憶を直接呼び起こす感覚だ。」

再び現れた白い犬が、何かをくわえていた。

それは古い芳香管だった。今では廃絶された、"香りを保存・再生する装置"。

「鼻識は、感覚の中で最も古く、最も原始的だ。
君の記憶の扉は、香りを鍵にして開かれる。」

管の蓋を外した瞬間、爆風のように記憶が広がった。

焚火の匂い。

雨上がりの土。

祖母の庭に咲いていた花の香り。

血の臭い。焦げた鉄の臭い。

そして、焼かれた街の記憶──。

ユリアナはその場に崩れ落ちた。

鼻識が解放された瞬間、記憶と感情が一気に開放され、意識の防壁が吹き飛んだのだ。


記憶の香りの爆発

彼女は夢の中にいた。

そこでは匂いが色として流れ、感情が空気に混じっていた。

誰かが泣いている。誰かが抱きしめている。誰かが別れを告げている。

香りの記憶が、断片的に連なり、「真実」を紡ぎ始める。

──ユリアナ、お前の鼻は生きている。
──この帝国で"本物の香り"を嗅げる者は、もうほとんどいない。

声がした。

ヨハネスだ。夢の中でも、彼の気配は確かにそこにあった。

「香りとは、"感情そのもの"だ。
帝国が嗅覚を制限した理由は、過去の感情の記録を消すため。
だが君はその痕跡を"嗅ぎ取る"ことができる。」


廃墟の地下植物園

翌日、ユリアナは地下に封鎖された旧植物園に潜入した。

香りの記憶を辿るため──かつて"自然"が存在していた痕跡を求めて。

崩れかけたガラスの温室に、朽ちた土の匂いがあった。

その中に、ほんのわずかに残る"命の香り"。

──ミモザの香りだ。

彼女の鼻先に広がったその香りが、鮮烈な映像を引き起こした。

母が着ていた白いコート。その胸元にさしていたミモザの小枝。

亡命直前、最後に見た母の姿だった。

「……やっぱり、生きてた。」

香りが、彼女に確信をもたらした。

この記憶は作られたものではない。匂いは、加工できない。

それが「真実」であり、「つながり」だった。


鼻識の完全な覚醒

ユリアナはそっと息を吸った。

帝国に禁じられた"香りの世界"を、まるでそれが命そのものであるかのように。

──私は嗅ぎ取る。
──世界にまだ残る、ほんの僅かな「真実」の痕跡を。

そのとき、彼女の鼻識は完全に開かれた。

(第3章・完)

※次章:第四識「舌識──甘美と毒の境界」へつづく

著者について

ユリアナ・シンテシス(Juliana Synthesis)は、仏教哲学とサイバーパンクを融合させた独創的な世界観で知られる作家。『九識真如の都』は、唯識思想の九識論を近未来ディストピアに投影した代表作。第三章「鼻識──禁断の香気」では、嗅覚を通じた記憶の覚醒と感情の解放を、詩的かつ幻想的に描いている。