【新方丈記】🌌 第1段:情報河と流転の記憶
🌌 第1段:情報河と流転の記憶
情報の流れは止むことなく、アクシオム帝国中枢を満たしていた。
クラウド網に漂うデータは、かつての記録を模しているようで、その実、すべて新しい。
無限に続く通信網は、過去も未来もあいまいにして、すべてを「今」に圧縮する。
中村卍天水は、その流れの傍らに佇んでいた。
彼の見つめるディスプレイに浮かぶ映像は、数秒後には書き換えられ、数時間前には忘れ去られていた。
現代において記録とは、すでに「過去」を保存するものではなく、「忘却の速度」を制御するアルゴリズムのことだった。
「この帝国では、時が滞在する場がないのかもしれぬ」
彼はそう呟きながら、ひとつの仮想小屋を構築した。
宇宙軌道上に浮かぶコロニーの隅、重力制御のゆるいエリアに、彼だけの静寂のデータ庵。
セラミック製のコアシェルを持つミニマル構造の小部屋は、熱も光も音も限界まで制限されており、
時が止まったかのような錯覚を与える場所であった。
情報社会の表層では、AIによる即応処理と感情モデリングが進み、
人々は「今」を過剰に共有し、「次」を恐れて設計されたルーティンをなぞっていた。
それでも飽和する欲望はとどまらず、仮想都市群では「沈黙」を望む者は異常者として分類された。
そんな中で天水は、「動かない」こと、「発信しない」ことを信仰に近い形で守っていた。
彼は誰からも監視されず、誰にも通知されず、ただ静かに、無限のスクロールから目を逸らして、
データではなく「存在」と向き合う時間を重ねていた。
「水が流れているように見えて、あれは流れていない。
流れとは、見る側の錯覚に過ぎぬ」
そう彼は記録に書き残した。
帝国ネットワーク内で唯一、検索にもかからないログデータ群の中に、彼の言葉がひっそりと保存されている。
すべてが動き続ける社会。
資源が自動化され、欲望が演算化された時代。
不変なるものなど何ひとつとして存在しないこの帝国で、
天水は「止まる」という行為に、ひとつの反逆を見出していた。
輝く情報の川の中に、記憶を漂わせる泡のように、
彼の静かなログがひとつ、またひとつ、流れてゆくのであった。
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